私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語―勝手口から

2012-04-28 14:10:22 | Weblog
 小雪は堀家家の勝手口の引き戸をほんの一寸開け、「ごめんくださいませ」と、やっと口から小さな声が出ました。
 そして、何となく「このような高貴な人のおうち、私みたいなものが」という後ろめたさがあったのですが、それでもやっと一歩だけそっとその足をねじ込ますようににじり入ります。その裏庭には、まだ、花びらの先をほんの少しだけ薄紅色に化粧させた桜が、松の常盤と取り合わせて、何か心地よく並んでいます。その桜の木の向こう側にも、真っ白い塀に寄りつくように、1本の藪つばきでしょうか、植えてありました。その木の周りには、もうこの花の盛りは過ぎているのでしょう、一杯の落ちつばきの花びらで敷き詰められ、赤い真ん丸い毛氈が拡げられているのではと紛うほどです。いつか、「つばきが好きだ」と言われた、あのおきちさまの言葉がそのままこの庭に現れているように、小雪には思えるのでした。
 あれからお宿に帰って、姐さん達から聞いた「やれお高いだ」の「やれ傲慢だ」の「やれ情が強いだ」のという、堀家の喜智さまのおうわさとはまったく違った、なんだかとても暖かな心をお持ちのお方ではないかと、このお庭の木々を見ながら考えていました。
 この屋の主様も、また、松と桜がたいそうお好きなお方だと聞いてはいましたが、その数寄の思いがこんな裏庭までにも風情一杯の景色を作り出しているのかしらと、どこかなつかしいような、いつか京で母と見たあんじゅ様のあの尼寺の庭を思い出させていました。そんなお庭を見ていますと、今更のように、とんでもない場違いなところに迷い込んでしまったかのような感覚に余計に思われ、「こなければよかった」と思えるのです。
 辺りは静かで物音一つありません。細谷川のさやけき瀬音も此処までは届かないのでしょう。もう一度、勇気を出して、でも、今度もやっぱり小声で「ごめんくださいませ」と声に出しました。
 「はーい」という元気のいい声が、見ている庭の木々の間から聞こえて来ました。
 そのとたんに小雪の心はどうしようもない心細さに襲われるのでした。これから起るであろう未知なる物に対する不安でしょうか。ぶるっと小さく身を震わせて、じっと地面を見つめるような姿勢をして待っていました。
 「あらま、小雪さんですね。玄関からお出でになればよかったのに。さあ、玄関に回って、あいにく、今は、作之丞一家もばあやまでも、一寸出かけているものですから、さ、どうぞ、どうぞ、あちらに回って、お客さんもお待ちかねですよ」
 「私のような者、ここからで結構でございます。もったいのうおます」
 と、これも蚊のなくように言う小雪でした。