私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語の始まり

2012-04-10 16:58:44 | Weblog
 
 私の住んでいます吉備津には、ご存じ「吉備津神社」をその懐に抱いている、本居宣長の四天王の一人であった藤井高尚がこよなく愛した、「吉備の中山」がその姿を見せています。そんな吉備津ですが、今日、桜が満開を迎えました。四季を通じて最も美しい時期なのです。
 このお山は瀬山陽が鯉が泳いでいるようだと称賛したとかで、別名「鯉魚山」「鯉山」とも呼ばれているのです。この中山の一番西側には、お魚の尻尾(おにぎり型)みたいな形をしている三角形のお山があります。飯山(いいやま)と呼ばれています。
 
 この飯山の麓の一角に、はいつくばうようにして「片山墓地」が広がっています。此処には、この地域の人々のお墓のほかに、当時、山陽道随一と歌われていた遊興の町「宮内」にいた多くの遊女のお墓も多く見ることができます。また、ここには、当時、これも山陽道一の大親分と歌われていた岡田屋熊次郎親分のお墓もあります。その側には、これまた、この大親分を見守るようにして、熊次郎親分の4天王の一人、子分の片嶋屋万五郎の墓も見ることが出来ます。
それから、これも、誠に不思議なことで、どうしてこんな所にと思えるようなお墓が、この万五郎の墓のすぐ傍に並んで、高さがたった41センチというごく小さなものですが、立てられています。しかも、その墓石には、ご丁寧に「玉樹涼陰信女」という戒名まで付けてあり、さらに、京都 俗名小雪 行年21才とまで彫られているではありませんか。
 
 此の墓をかって調査された藤井駿先生は、昭和44年に、この小さく「小雪」とお刻まれている墓石に葬られている女性は、文化文政の頃ですが、宮内にいた京都出身の遊女だという事を発見されました。

 
 当時、宮内にいた「遊女」の数は100人は下らなかっただろうといわれています。当然、この宮内で、若くして悲運な内に命を落とした遊女も相当多くいたと思われます。彼女たちは、戒名もなく、その他大勢の一人として、無縁墓地に葬られています。
 それなのに、なぜ、この小雪だけのお墓が、41cmと、小さいながらにも、それも万五郎と同じ場所に並んで、「玉樹涼陰信女」という立派な戒名まで付けてもらって立てられたのでしょうか。余りにも他の遊女と違い、特別に優遇され過ぎているようにお思いになりませんか。

 それらの理由は、なに一つこの地に言い伝えとしても残っていません。永遠の謎として、ただ小さな墓石があるだけで、永久にその訳は知ることはできません。

 そこら辺りを私の心の中の作り話として、語りかけてもいいのではないかと思いまして、少々これも長くなりますが、書いてみました。よかったら目を通してみてくださいね。

 なお、2007年2月から、このブログを通して、この物語は書き綴ています。その再録です。念のために。