私の手元には元禄四年九月に画かれた吉備津神社御絵図があります。
現在、「宇賀神社」とされている社は、この地図にあるようにはっきりと「弁財天」と書かれています。何時ごろからどういう理由で名称変更があったのでしょうか。そこら辺りをもう少し掘り下げてみたいと思います。
まずその絵地図を見てください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/7b/cdeb232934354b1c7ef1ef9d281512c2.jpg)
この絵図の中にある釜宮というのが現在ある御竈殿です。神馬というのはよく分かりませんが、元禄の時代には、この辺りに神馬のいる馬小屋でもあったのでしょうか???
内宮、金毘羅宮、更に岩山宮の階段の南側には三重塔までちゃんと書きこまれてあります。長い回廊も、元禄の世には新宮までではなく本宮までしかないよう描きこまれています。
現在、「宇賀神社」とされている社は、この地図にあるようにはっきりと「弁財天」と書かれています。何時ごろからどういう理由で名称変更があったのでしょうか。そこら辺りをもう少し掘り下げてみたいと思います。
まずその絵地図を見てください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/7b/cdeb232934354b1c7ef1ef9d281512c2.jpg)
この絵図の中にある釜宮というのが現在ある御竈殿です。神馬というのはよく分かりませんが、元禄の時代には、この辺りに神馬のいる馬小屋でもあったのでしょうか???
内宮、金毘羅宮、更に岩山宮の階段の南側には三重塔までちゃんと書きこまれてあります。長い回廊も、元禄の世には新宮までではなく本宮までしかないよう描きこまれています。
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