私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

お正月の神

2012-01-11 20:45:44 | Weblog
 昨日、正月にお飾りや門松を家々で立てて神様を迎えるのだと云う事を書いたのですが、家々に迎える神様とは一体どんな神様だとお思いでしょうか。福の神であることには間違いないのですが、果たしてどんな神様かというと定かではないのですが、私が小さい時に祖母などが話していたのをおぼろげに覚えているのですが、確か「大年様」と言っていたように記憶しています。

 この「大年神」というのは一体どんな神様かよく分かりませんが、昔、祖母などから聞いた話によると、正月にやってきたこの福神は、暫らく、家にいては、多分半年ぐらく経つと帰って行かれ、次の正月に又家に来られ、其家に福を授けるのだと云う話だったようにおぼろげな記憶として今でも体のどこかに残っています。

 その家に来られた大年神をお祭りしている所が神棚で、どこの家でもなくてはならない欠かせない場所として家の中に設えてあったのです。

 尚、ものの本によると、あの素戔鳴尊が大山祗神の女大市比売を娶って生まれた子がこの大年神であると言われ、農業の神様であるともいわれています。

お飾り

2012-01-10 16:28:56 | Weblog
 今日、自転車で吉備津の町を走りました。お正月のお飾りがどの家にも玄関に掲げてあるます。お店で売られているものがやたらと目に付きます。その昔、といっても、もう60年も前の戦前の話ですが、正月用のお飾りは、この吉備津でも、みんな自分で作って自分の家の色々な場所に飾ってありました。それこそ家じゅうにです。玄関、神棚、お床は勿論、各部屋ごとに、納戸、奥の間、台所にあるくどにも、更に、便所にも、井戸にも、物置小屋にまでも、そしてご丁寧にお墓にまでも、中には、野や畑にある名も無き小さな祠にもです。人と関わりのある総ての場所に正月の神様を招いて福を授けていただくのだというのです。それが正月でした。

 所が、何時のころからだったかははっきりとしていませんが、多分、昭和30年代の初め頃からではなかろうかと思われるのですが、お飾りはお店で買うものであるという風潮が一般化して現在に至っています。そして、現代では、自分で作るお飾りは我が吉備津地区内でもほとんど見かけることは在りません。お店から買って来たものです。だから、その形も総て同じものです。これこそ、伝統の民芸的吉備津独特のお飾りだと云う物は皆無のように思われます。だから、1月15日にする「とんど」という自分の家での行事は無くなってしまいました。昔がどんどんと私の身の周りから消え去って行っています。
 なお、私は昔人間です。今でも昔からの父親から受け継いだお飾りを自分で作っています。

 ちなみに、「いのこ」だとか「やれぼう」だと云う風習など有ったことすら知らない人がほとんどだと思います。皆さんご存知ですか???


 こんな正月の神中心の生活がほんの60年の昔には、確実に我が農村には有ったのです。それも弥生の昔から、大雑把に言いますと、3000年の長きにわたって日本人の生活の一部となっていた風習だったのですが、それが科学的成果と云う名のもとに、たった50年の間にきれいさっぱりと日本人の生活の中から消え去ってしまったのです。

 そんなことを考えると、近代化とは一体何でしょうかね、そんな風潮と共に出てきたのは「我欲」の満ち溢れた社会ではないでしょうか。徹底的な個人主義といいいましょうか、それともあの懐かしい「欲望という名の電車」という映画の場面が突如として現代によみがえったような社会に、日本も完全になてしまったのでしょうか。

 アメリカナイズという魔物みたいな巨人が、戦争という是又魔物に襲いかかられて、否応なしに、完全に呑みこまれてしまったのではないのではないでしょうか。何かへんてこりんな社会だとおもわれませんか。ギリシャなどの欧州の社会情勢などどこ吹く風の如くに、大宅壮一ではないのですが、そんなことには一切無関心と一億総無知になり下がっているのではないでしょうか。いつか来た道ですが、それも知らない如くに、年末から正月にかけてのあのテレビの様子は何でしょうかね。それをプロデュスしたのテレビ局の馬鹿共の顔が見たいとお思いになりませんか。

 そんな事を思うと、これからの日本は何処に行ってしまうのでしょうかね。まあ私は後期高齢者ですから、これからの日本がどうなるのか、あまり関係はないのですが。

 ご批判賜れば

正月9日です

2012-01-09 09:34:20 | Weblog
 吉備津神社の正月行事としてもう一つあります。それが九日から十一日までの吉備津神社ゑびす祭りです。

 何時ごろからこのお祭りが、この吉備津神社で行われたかということは不明ですが、言い伝えによると、あの栄西禅師の父親がこの恵比寿様を随分と信仰しておられた影響で、栄西もゑびす様を深く信仰していたのだと。ちなみに、栄西が建立した建仁寺の境内にも「えびすさま」をお祭りした小さな祠があるとか?更に、是も言い伝えなのですが、栄西は、2度も、宗の国に仏教(臨済宗)の修行に行っていますが、その行来に使った船先に、この吉備津神社に在った恵比寿の札を掲げて渡航したと云うことです。

 今も窓から、これはあまり感心しないのですが、大阪の戎さん当りからの「ささもってこい」の録音でしょうが流れてきています。もう少し何か工夫があってもいいのではと、天国から栄西さんも苦笑いしているのではと思いますが。でも、近ごろは口コミの影響もあって、割合繁昌しているようです。

町内祈祷

2012-01-08 11:48:51 | Weblog
 平成24年初春の町内祈祷が吉備津神社で行われました。まず、本殿で御祈祷を受けます。参加者全員で拝殿でお祓いを受け、神殿前の回廊に正座して今年一年間の安全祈願をお祈りします。この神殿には国の重要文化財に指定されている木製の狛犬が左右に控え、主神である吉備津彦命をお守りしています。
 ご覧になられたお方も多いかとは存じますが、一寸、スナップの写真を取ってきましたのでご覧ください。

     

 その後、お釜殿で今年の運を占っていただきます。東北地方の早い復興をも願いながら聞いていましたが、お釜の大きな唸り声がそこらじゅうに響き渡り、その吉兆の釜の音に何かしら明るさがあるようにも思われ、暫らく深く首を垂れておりました。

  初春の 釜の響きや 龍と斉   亮

岡山市高松公民館の館長さんは犬飼氏です。

2012-01-07 12:10:34 | Weblog
 現在、高松公民館では、館長さん始め職員の皆さんが、高松地区住民の皆さんの生活に潤いが見られるようにと、沢山のそれこそ生涯学習の為に善かれ思われて、色々な工夫の基に、その活動がより活発になるよう手を変え品を変えて、住民の文化的生活の向上に日々努められておられます。その活動に私もたびたびその活動に参加させていただいており、常に有難い事だと感謝しております。

 さて、この館長さんの姓が「犬飼」なのです。その犬飼館長さんが、いつの頃だったかは不明なのですが
 「私は高松公民館長の犬飼です。犬飼と言いますから、皆さんは、きっと吉備津神社と何か関係があるのではないかしらと思われるかもしれませんが、何の関係も無いのです。しかも、高松から遠く離れている瀬戸内市に住んでいます。本当に不思議な御縁です。でも、私は犬飼なのです」
 と、さも自分が犬飼姓であるのが不思議であるかのようなご挨拶をされるのを聞いたことがあります。

 館長さんが言われるように、備前に「犬飼」姓があっては不思議でしょうか。何かおかしいでしょうか???。そこで、一寸、これを、今日は、考えてみました。

 昔「ももたろう」の時代には、吉備の国と言えば備前・備中・備後・美作だけではなかったのです。播磨や安芸、讃岐辺りまでその勢力を伸ばしたのだと言い伝えられていました。そうすると、桃太郎が鬼退治した後、吉備の国各地の治安維持のためにあの「いぬ」が吉備の国の各地に散らばって中央の政治から離れて行きますが、その証拠となるのが、吉備の国各地、至る所に在る「犬飼」姓なのだと言われています。

 だから、高松公民館館長さんが犬飼さんで、瀬戸内市にお住まいでも、決して、奇異なへんてこりんな事ではないのです。あって当然なのです。「犬飼」という姓はそれぐらい昔からずっと続いている証拠なのです。まあ、昨日取り上げた「吉備津のこまいぬ」から、そんなお話があるのだと云うことを思いつきました。
 なお、この犬飼姓がダントツ多いのは、やはり吉備津神社を取り巻く吉備津、一宮、庭瀬、庄などの村々ですが、中には、備後にも美作にも讃岐にも在ります。

 是も高松公民館の歴史講座より仕入れたお話ですが。

「吉備津のこまいぬ」の謂れ?

2012-01-05 10:56:02 | Weblog
 吉備津には昔から、どのくらいの歴史があって、どのような謂れがあって出来たのかは不明なのですが、まことに素朴な郷土玩具があります。それが「吉備津のこまいぬ」です。  

     

 此の郷土玩具「吉備津のこまいぬ」についても、次のような話も残っているのだと、かって聞いたことがあります。

 吉備津神社の主神は吉備津彦命です。云わずと知れた吉備の国の伝説「ももたろう」の主人公です。その中に犬が家来になったことはみなさんも御存じでしょう。吉備津彦命は、鬼退治、そうです、鬼の城の鬼「温羅」一味を退治して後、吉備の国にあって統治しますが、その統治の際、家来として付き添って鬼退治した1・2番に家来となった猿と雉は、そのまま吉備津彦命の吉備の国の政治に直接参加します。でも、3番目に家来になった犬だけは吉備津彦命のお傍から離れ、吉備の各地を廻って治安に務め、間接的に吉備津彦の政治を助けるのです。地方警察の役目です。云わば日蔭の、いわゆる後世で言われる「探偵」「目明し」の役目です。吉備津彦命の犬になり下がったのです。だから、吉備地方には犬飼(犬養)姓がやたらと目立ちます。そんなことから、せめて何かの形にして吉備津神社といいますか、吉備津彦命のお側に、この犬を形だけでも残したいと思って、後世の人が土俗品として写真のような郷土玩具に作って吉備津神社に置いてお参りする人々に売ったのだと云われるのです。

 まことそれらしい話ではありませんか?
 でも、今ではこれを作る人はいませんので吉備津神社では売られてはいませんが、その素朴さを愛する人は吉備津に沢山いますので、また、いつの日にかこの玩具が吉備津神社でも売られるのではないかと私は思っています。  

 
 

三味線餅搗

2012-01-04 10:04:10 | Weblog
 吉備津神社ではお正月行事として昨日紹介した矢立て神事と共になくてはならない、ここ独特の行事があります。それが「三味線餅搗」」です。元旦から3日まで神社境内において行われます。約2俵のお餅をついて正月参詣の人達に配られるのです。

 この餅搗行事が何時ごろ始められたかという確かな証拠はないのですが、言い伝えによりますと江戸の中ごろからでしょうか三味線、鉦、太鼓などのお囃子が餅搗きとコラボレーションされ創り上げられたのだと云われています。そこには江戸時代の山陽随一の歓楽街として栄えた宮内の芸者衆から派生したのではと思われる芸能に対する素養が、宮内や板倉の人々に、此の行事を作らしめたのではにかと思われます。
 そのお囃子と一緒に歌われた歌も残っています。

   ・吉備の中山ナー 細谷川のヨー 恋の架け橋 丸木橋 丸木橋 丸木橋
   ・今日も鳴るなるナー 不思議な釜がヨー 備中吉備津の お釜殿 お釜殿 お釜殿 
   ・お茶で名高いナー 栄西禅師ヨー しかも吉備津が 誕生地 誕生地 誕生地
   ・吉備津神社のナー 大広間でヨー 餅の曲搗く 面白や 面白や 面白や
   ・向ふ鉢巻きナー 三本搗きのヨー 餅の曲搗き 名も高い 名も高い 名も高い
   ・三味や太鼓でナー 杵音そろやヨー 小餅丸顔 又そろう またそろう またそろう 

 要するに7775のどどいつ調の単純な囃子言葉です。内容は簡単なそれこそそこらへんの一寸のど自慢のど素人が酒の勢いで何となく吉備津の言い伝えを三味線の音色に合わせて口にしたぐらいな至って幼稚な内容ですが。それが今でも後生大事に歌いつがれています。

 その餅つき風景です。
                

 なお、藤井駿先生の「吉備津神社」によりますと、その起源は吉備津神社のお屋根替えが5~60年ごとに行われるのですが、其の時備中の国75の村々から荷車などで餅米が奉納されすのですが、それを歓迎する為に宮内村の人たちが餅を搗いたのがその謂れであると説明がしてあります。まあ、どちらにしても、是も備中の時代を物語る遠き昔の良き時代の伝統の名残り物なのです。

矢立ての神事

2012-01-03 17:16:01 | Weblog
 昨日紹介しました吉備津神社1月3日に行われる恒例の矢立ての神事です。写真に撮ってきました見てください。

      

 神殿でお祓いを行い、3人の神官のお案内で、本年度の射手の人達が矢置岩の前に勢ぞろいします(写真1)。お祓いを受けた弓と矢を持ってきた協会関係者の人たちからまず神主が弓と矢を一つずつ矢置岩の上に捧げ祀ります(写真2)。次に、その岩に並べられた矢を、今度は、本年度の射手に神主によって一本ずつ手渡されます。手渡された矢を持った射手(4名)はそれぞれに一人ずつ弓に矢をつがえて、東から北へと順次大空に向けて矢を放ちます。之が吉備津神社の正月の矢立ての神事なのです。

 約30分間に渡る吉備津神社ならではの正月の絵巻物です。

あけましておめでとうございます。   

2012-01-02 13:49:51 | Weblog
 2012年の幕開けです。我が家の正月飾りをご紹介して壬辰年の初めとします。

  

 私は、明日は、吉備津神社の正月恒例の三味線餅つきのお手伝いに参加する予定です。なお、この日には、これも恒例になっています神社入り口の矢置岩の前で「矢立ての神事」の行事がおこなわれますので、是非、吉備津神社にお参り戴き、とくとご覧ください。

 此の行事は社伝によると次のように説明がしてあります。

 「当社の西北二里の新山に温羅という鬼神あり、凶暴にして庶民を苦しむ、大吉備津彦命は吉備の中山に陣取り鬼神と互いに弓矢を射るに両方の矢、空中に衝突して落つ。そこの矢喰宮あり、また、中山主神は鬼神の矢を空中に奪取す。当社本殿の矢取明神ほこの神を祀る。この戦いの時大吉備津彦命その矢をこの岩の上に置き給いしにより矢置岩と呼ぶ。」
 と。

 更に、この社伝によると、「中古」よりとありますから、たぶん、室町の頃からだと考えられますが、神官によって矢置き岩に置かれた白矢を神殿に奉る「箭祭の神事」が行われていたようですが、いつしかそのような行事も消えてなくなってしまいます。それが、現在のような形になって復興されたのが、昭和35年からの「矢立ての神事」なのだそうです。(藤井駿著「吉備津神社」より)