私の町 吉備津

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半田と云う地名

2010-12-05 17:55:34 | Weblog

 吉備地方には沢山の「半田」と呼ばれている地名があります。この地名は、この場所に、当時、秦人が土着した土地だと言う証拠なのです。

 まず、最初に、半田と言うと、「ああ、あれか」と誰でもがご存じの「半田山」です。半田山植物園がある、岡山大学の裏手にある山です。この山の南側一帯が古の半田だったのです。ここが帰化人たちが住みついた場所だったのです。この「半田(はんだ)」と、名のついた地名は、岡山県の各地に見られます。
 そのいくつかを上げてみます。

 ・赤磐市周匝・瀬戸内市山田荘・倉敷市三田・倉敷市箭田・真庭市上水・同中津井・同落合・その他勝田郡・英田郡・久米郡等に、その半田と云う地名を見ることが出来ます。少なくとも、半田と云う地名は、県内には、全部で20以上もあります。勿論、字名ですので、よほど詳しく調べないと分からないのですが。

 これら秦からの帰化人たちは、当時、主に先進的な農業技術者として、その地方の土地開発に携わったのではないかと思われます。池、灌漑用水路、干拓など幅広い分野で、指導的な役割を果たしています。当時の日本人にとっては、本当に有難い何でも知っている大切な人として迎えられたのだと思います。でも、彼ら帰化人に与えられた土地は一級地ではなかったのです。誠に辺鄙な所を、生活拠点として、与えられたのです。それが、現在までに残っている「半田」なのです。

 私は、これまで、中国や朝鮮からの帰化人の多くは、瀬戸内海沿岸部のある程度広々とした土地の開発に従事して、生産の一大飛躍をもたらした優秀な人々として、人々から大いに尊重され、それだけに、優遇されていたのではと思っていました。しかし、現実には、案外に、帰化人、そうです、他所者として、「豊富な技術を持っている我々の師になる優秀な人たち」とは思わないで、単に、「何処からともなく流れついた身元の分からない他所者」ぐらいにしか思われてはいなかったのではないでしょうか。その為に、中国山地の山奥(苫田郡羽出にも半田と云う字名があります)にまで、彼らは入り込んでいます。ここでも他所者意識で見られたのではないでしょうか。それが難民の実態ではなかったのでしょうか。しかし、彼らは、日本にとっては、大変な経済的効果はもたらしてくれたのは事実です。


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