私の町 吉備津

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秦からの帰化人

2010-12-11 16:43:57 | Weblog

 中国では、秦が滅んで(BC206),漢が興るのですが、その際、沢山の秦の国の人が日本に亡命してきます。その人たちが住みついた所が、現在、「秦」・「半田」などと呼ばれた土地なのです。

 吉備における「秦・半田(はた)」は、この前説明しましたが、その他、この秦に関連した地名の残っている土地があります。
 「秦・葉田・土田・幡多・半田・畑谷(はたや)・服部・八取・勝部・勝間田・勝田・可知」などが、それだと言われています。しかし、この内の「勝部」等が、どのように秦と繋がりがあるのかは分からないのですが、永山卯三郎先生はそのように書かれています。

 なお、秦が滅んで、劉備が興した漢の国ですが、約200年後、AD7年に王莾の「新」が興り、滅びます。その後、この「新」と云う国もすぐ亡ぼされ、AD23年に、光武帝が「後漢」を興します。
 その王莾によって興った「新」の国の貨幣が「貨泉」です。

                

 その「貨泉」が、先に述べた、高塚遺跡(我が吉備津から約3kmの所にある)から25枚も出土しています。
 という事は、漢の時代にも、やはり多くの漢人たちの我が国への帰化があったことは確かです。此処高塚へは「新」からの移住でだあったのでしょうか。
 

 なお、この高塚遺跡のある場所のお隣に、秦からの帰化人がいたという証拠を残す「土田」「上土田」と、呼ばれているがありますです。
 ひょっとしたら、秦が滅びてもう200年もたった時でしたが、既に、その地に定住して、安定した生活をしていた秦出身の人たちが作っていたの中に、漢からやって来た漢人(新を含む)が入り込んで来たのではないでしょうか。日本へ移住してきたこれら新しい漢人たちも、、既に、日本に確乎たる生活基盤を作っていたこの同胞者を頼って、自分たちの生活の場の確保を求めたのではないでしょうか。そして、はるばる中国から持ってきた、当時の日本では使えなかった大量の「貨泉」を原料にして、当時の日本での、まつりごとに欠かすことが出来なかった、あの高度な技術を要する銅鐸を、共同で、いとも簡単に、この地で作り上げたのではないでしょうか。
 それによって、当時の吉備地方の人々にも、これら帰化した人たちに対して、
 「あんなすごいものを作るなんてたいしたものだ。すごい人たちだ」
 と、他所者だとさげすまれることもなく、むしろ、その「すごい、なんて高い文化を持っているのだろうと」という尊敬にも似た驚嘆の評価をもって、この大陸からの異邦人を積極的に受け入れたのではないでしょうか。
 そのようにして自分たちの価値を認めさせ、新しい土地での生活の安定化を図った、これら帰化人たちのしたたかさにも、少々の驚きを掻き立てられます。

 そのまだ、弥生の世のであった当時(2000年前)の日本に、秦人が移住して200年後も経ってから入って来た「漢人たち」が住んだ場所であるとされる所が、沢山、吉備にもあります。それについて明日にでも探ってみようと思います。


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