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共に生きる力

2018-06-17 14:20:47 | メッセージ

礼拝宣教 コリント二11章30-12章10節  沖縄・命どぅ宝の日をおぼえて

 

今週6月23日の「命どぅ宝の日」を覚えて、アピールと報告・祈りの時がもたれました。Iさんより沖縄バプテスト連盟普天間教会付属緑ヶ丘保育園米軍機部品落下物の現状報告がありましたが。その当事者の方々が抱えておられる苦しみや痛みは、こうして耳を傾けようとしない限りわからないものです。けれどもこれは決して人ごとで済まされることではなく、こんな状況をゆるし、「仕方がない」で済ませていく社会は、第2、第3のこうした非人道的な状態を作り出し、気づいた時には自分もその当事者にも、逆にその加担者の側にもなり得るのです。無関心でいることから関心をもつことが大切なことですね。

この沖縄のおかれてきた状況を私たちの課題としてまず知って、祈りに覚え、今日は読みませんでしたが、コリント二5章に記されている「キリストにある和解と平和の福音」に与る者として努めたいと願います。

 

さて、先週はそのコリント二4章から「土の器に納められた宝」というお話でありました。土の器のようなもろく欠けを生じるような私たちのうちに、救い主イエス・キリストが来てくださり、その主のみ救いという他にはない素晴らしい宝を頂いているという福音をともに確認することができ感謝でした。

偉大な力が人からでなく、神から出たものであることが明らかになるために。そのために、土の器の私があるがまま用いられるのであります。

 

本日は先ほど読まれ、こどもメッセージにもありました個所から「共に生きる力」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

今日の箇所は大きな文脈としては10章からのパウロ自身のことについて記されている中の一部ですが。ここで読み取るべきは、パウロが何を誇りとしているか、ということです。今日の11章30節で「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と言ったパウロのその真実とは何かをまず見ていきたいと思います。

 

この11章では、コリントの教会の中でパウロを非難中傷し、誇り高ぶっていた反対者たちに対して、パウロはあえて自分の誇りとなるような事どもを列挙するのです。

それは10章7節にあるように「うわべのことだけ見て」非難中傷する人たちにあえてそう言ったのですね。

パウロは10章1節で「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出ると思われているこのわたしパウロ」と言ったり、又10節では「わたしのことを手紙では重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらないと言う者たちがいる」と、記していますが。まあ、この言葉に私をはじめ全国の牧師たちはどれだけ励まされてきたことでしょうか。

 

そういうパウロは自分の働きについて不適格であると見下す反対者たちが、肉的な面で自分を誇り、自分たちこそふさわしいと言うのなら、パウロ自身も肉的に言えば生粋の「ヘブライ人」「イスラエル人」「アブラハムの子孫」であると言うのですね。

もっと言えば、実際彼はコリントの教会の開拓者で、創始者のような実績をもった人でもあったわけです。

しかしそういった自分の功績や実績を決して誇ろうとするのではなく、23節以降にあるように、福音を伝え、証していく中で、自分が負った数々の苦難とその弱さを列挙していくのです。そこが反対者たちの態度とパウロのその態度との違いでした。

 

さらに、パウロには遠く離れている今でも、コリントの教会と信徒たちの心配ごとが日々あり、心はいつも彼らを思うがゆえに、こう述べるのです。

「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」

ここに弱さ、ということが出て来るわけですけれども。始めに「パウロの誇り」というものがどのようなものであるかを知るには、この「弱さ」ということがいわばキーワードとしてあることを申し上げましたが。

それはまさにパウロがコリントの教会と信徒たちのことをいつも自分のことのように思いやり、心配していたがゆえにその身に負った弱さであったということです。

 

この弱さとは単に消極的な弱さではありません。

確かにパウロはキリストの僕として仕え、福音を伝え証してしていくゆえに負った苦難の数々に自分の弱さを痛感したでしょう。しかし、それだけでなく彼は福音の種を蒔き、同じ主の救いに与る者となった教会の信徒たちの心配事で心を痛めたり、平静でいられなくなってしまうような自分の状態を、「弱さ」と表現したのですね。

それは愛すればこその弱さです。パウロが言うように、数えきれないほどの困難と苦難に遭いながら伝え続けた福音の実りが決して損なわれてはならない。たとえば、農夫が長いこと大変な苦労をしてやっと結実した実を台風の季節に案じるような弱さと言えるでしょう。あるいは、こどもを案じる親のような弱さに近いのかも知れません。

パウロの弱さとは、そのように共に生きる者として生じる、いわば積極的な弱さとでもいうことができるかと思います。

まあそのように言いますと、何かパウロが元々大変情が厚く、責任感があって面倒みのよい私たちとはかけ離れた存在だと思う人もいるかもしれませんが、そういう事ではありません。何度も言いましたように、パウロはキリストと出会う前は、自らの知識や律法を遵守する生き方を誇りとして、教会とクリスチャンを激しく迫害して回るような人物だったのです。

それがキリスト、生ける主との出会いによって徹底的にその魂が打ち砕かれるんですね。

そうして自分の弱さと罪を思い知った時、彼は神の弱さ、すなわち十字架につけられたキリストだけが自分の滅びの底にまで来られ、救うことがおできになる唯一のお方であることをさとるのであります。

 

ここでパウロは教会と信徒への愛のゆえの弱さを口にするのでありますが。その源泉は、キリストの十字架の救いにあるのです。

それは罪に滅ぶ他ない私たち一人ひとりのため、主イエスが私たちと同じ姿となってこの地上に来られ、共に生き、十字架の苦難と死に至るまで、私たち罪深い者を愛し通してくださった神の愛です。

主イエスの十字架の苦難と死の有様は、世の人々の目からすれば自分を救うこともできないような弱い敗北者のようにしか映らないものであります。しかし、そうではありません。主イエスが負われたその弱さは、まさに私たちの弱さと共にあって、共に泣き、痛みと絶望さえ共にする神の愛です。この愛は、相手を愛するがゆえに、自らの腸が千切れるほど痛むような愛、相手の苦しみをわが身に負うような愛であります。

 

パウロはその神に敵対するような罪深い自分のためにさえ、その受けるべき裁きの身代わりとなって死なれた十字架のキリストのお姿に「共に生きる神の力」、そしてパウロ自身の「共に生きる力」を見出すのですね。

 

さて、続く12章のところを読みますと、これはパウロ自ら、第三の天、楽園にまで引き上げられたという体験を第三者的な表現で語り、「このような人のことをわたしは誇りましょう」と述べます。

パウロがあえてそう言ったのは、反対者たちの中に、与えられた神秘的な体験を誇り、売りものにするような人々もいたからです。

彼は「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」と述べます。

ここでも「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇る」というのですね。

 

パウロはその「第三の天、楽園にまで引き上げられた体験」が自分を誇ることとなって、思い上がるようなことがないために、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは思い上がらないようにと、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」と述べています。

この「とげ」とは、人につまずきを与えるのではと思われるほど目立つものであったとか、パウロの体に耐え難い痛みを与えるような病気のことだと言われております。ガラテヤ書2章から、ある種の眼病か発作を抱えていたと推測されています。

いずれにせよ、パウロはそのとげを何とか取り去ってくださるようにと主に3度願った、つまり祈ったというのであります。この3度とは、単に3度ということではなく、徹底的にという意味です。それほどにパウロは主に祈ったということです。

けれどパウロの祈りに対する主のお答えは意外なものでした。

9節「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」以前使用していた口語訳聖書には「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」とありますが。どちらにいたしましても、その力はわたしのうちにあるのではなく、主の力であり、主から来るその力はまさに、わたしのその弱さの中でこそ十分に発揮されるのだというのです。

 

「弱さの中でこそ十分に発揮されるこの神の力とは、ギリシャ語でデュナミス、ダイナメント。それは無から有を生じさせる、そんな爆発的な力です。また原語の「弱さ」は「無力」という意味をもっています。

 

パウロは「とげが自分の身から取り去られることを」徹底的に祈ったにも拘わらず、その思い通りになりませんでした。

これさえなければ、これさえなおればもっと神の栄光をあらわす生き方ができるのに。もっと働けるのに、さらに認められて用いられるはずなのに。人はそう考えますけれど、主はそうはおっしゃいません。

むしろ、主はパウロに、そのとげがあるという弱さの中でこそ、人の力ではなく、神の力が十分に発揮される、とおっしゃるのです。

 

パウロは遂にこの御言葉によって、「それだから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」とまで宣言するに至ります。

キリストの十字架の苦難と死、その神の弱さをとおしてもたらされた完全な救いのみ業の体験は、今まさに弱っている教会やその兄弟姉妹と共に生きる力となって、なおも彼らを叱咤激励して、遂にコリントの教会は神の前にしっかりと立ち返り、その後大きな福音の実りが結実してゆくことになるんですね。

まさしくパウロのとげの弱さの中で働いた神の力によって、ダイナミックな救いのみ業が起こされていくのですね。

 

今日のところをパウロはこう結びます。

10節「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足(岩波訳:喜ぶ)しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

 

私たちが無力さをおぼえる時にこそ、その弱いところに無から有を生じさせるようなダイナミックな神の力がゆたかに働いているのです。それは私たちにとって何と力強い励ましのメッセージでしょうか。

ややともすれば、私たちが弱さを誇るというとき、自分は弱くて力がなくて何もできません、とその弱さにあぐらをかいて、単なる弱さ自慢で終わることがないでしょうか。

パウロがここで言っている弱さとは、弱さやしんどさを抱える隣人や他者のために自ら弱さを身に負う、共に生きる力なんだということを、キリストの十字架を通して伝えているのですね。

 

最後に、このパウロが教会と信徒を思う「涙の書簡」といわれるコリントの信徒への第二の締めくくりとして、13章4節を読んで、今日の宣教を閉じたいと思います。

「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって(力強く)生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者(隣人の苦しみ痛みを共に負う者)ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によって(力強く)キリストと共に生きています。」

 

私たちは弱いときにこそ強い。弱さの中にこそ働かれる完全な神の力を信じ、望み、頼りとして私たちもまた、キリストの証の存在として今週もここから遣わされてまいりましょう。

祈ります。

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