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キリストの香りを放つ務め

2018-06-03 18:20:12 | メッセージ

礼拝宣教 コリント二2:14-3:6

 

今日から数回に亘って読んでいきますコリントの信徒への手紙の二でありますが。この手紙の背景にはパウロのその使徒職について彼にその資格があるのかどうかを問い、コリントの教会を混乱させていた人たちがいたということです。そればかりでなく、偽教師がいて、勝手な解釈で語り、不当に利益を得る人たちもいたようです。

まあ、パウロは12弟子のように生前のイエスさまのことを知らなかったという点から、使徒としてふさわしくはない、と言われていたようです。

 

私は「牧師になるにも資格が必要ですよね」と訊ねられることがあります。確かにキリスト教の教派によっては補教師や正教師の試験をパスしなければなれないケースもあります。でも私たちの教派は、牧師となるためのそういった資格が前提となるわけではありません。大切なのは本人が主の前に如何に砕かれ、その大いなる恵みに応えていくべく主に導かれているかいなか、それを召命感ということができるかと思いますが。それが大前提であります。

又一方で、自分は牧師の召命を受けているからといって勝手に牧師となることはできません。

そこには教会の招聘がなされねばならないのです。

この教会であったら、教会の総会で私を牧師として招聘する決議をし、それに私が受諾してはじめて牧師として立てられていくのですね。その私の牧師という職務は大阪教会の群れにある限りにおいてであります。たとえばこの教会を事情で辞任することになれば、私はもはや牧師ではなくなります。

 

今日のところでパウロが「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」と言っていますが。ここを読むとコリントの教会も会衆の信任と推薦のうえに「使徒としてのパウロ」があったのだということがわかります。

パウロは自分の使徒職についていわゆる世の資格云々ということで問われるとしたなら、今日の2章16節でつぶやいたように「このような務めにだれがふさわしいでしょうか」と言う以外ありませんでした。

彼はキリストと出会う前までは、彼は律法の子として専門的な教育を受け、律法を忠実に守り、その熱心さも非の打ちどころない人物でした。しかし彼は主との出会いによって、そういったどんな熱心をもってしても神に近づくどころか、逆に神に罪を犯す者であったそのわが身のふがいなさを思い知らされて魂が打ち砕かれるのです。いやそれだけでなく、主イエス・キリストがその彼の罪の裁きを自ら負って下さり、十字架で血を流して贖いの死を成し遂げてくださった大きな大きな愛とその犠牲を体験するんですね。

「主は到底救い難い自分を十字架の御血をもってお救いくださった」という驚くばかりの恵みをほんとうに知ったのですね。

それまでクリスチャンを激しく迫害し、その死にさえ加担したパウロは、その使徒職の資格について、彼自身が誰より「如何に自分がその任にふさわしい者ではない」かを覚えずにいられなかったのではないでしょうか。ただ、そういった救いようのない自分を滅びから救い出してくださった主のために献げ、証言者として自らを献げつつ、生きていくことを喜びとし、その使命とする任へ導かれていったのでありましょう。言い換えますなら、実はここに主がパウロを使徒としていった力と証明があるのです。

 

そのパウロは言います。3章5節「わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」

文字は殺す、これは律法の書を人の熱心で守ろうとしてもかえってそれをなし得ないため滅びる他ない、人の弱さを表します。

そうして、もはや人の力でなし得ない救いを、神の御霊みずから成し遂げて下さった。霊は生かす。それは神の一方的恵みです。

 

ここで「神から与えられた・・・新しい契約に仕える資格」とは、主の晩餐がこの後もたれますが、その時に「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」との御言葉が読まれますその「新しい契約」のことです。

それはまさに、如何に救い難いような者を救うために流された主イエスの主の尊い御血による犠牲であり、だれもが資格も価なくても、無条件で「新しい命に入れられる救い」の福音であります。後ほど、感謝のうちにこの新しい主イエスの御血による契約にともに与ってまいりましょう。

 

さて、今日はもう一つ「キリストの香りを放つ務め」について御言葉から聞いていきたいと思います。

使徒パウロは2章14節「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」と述べます。

 

彼は十字架の救いが成し遂げられた事を、キリストの勝利だと言います。イエスさまご自身「わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)と、十字架の贖いを自らの勝利として宣言なさいました。

又、そのようにイエス・キリストが勝利なさったので、イエス・キリストに従っている人もみな勝利者なのです。そのキリストの勝利をパウロはローマの将軍と兵士たちが戦いで勝利して戻って来る時の凱旋の様子に重ねます。

一説によれば、ローマの将軍が兵士たちとともに多くの戦利品と捕虜を携えてローマに戻てくる時、ローマ市民は歓呼の声と拍手喝采を送り、焚いた香の薫りが市内に充満しました。

そのようにキリストの勝利とそれに連なる者を通して「神」が至るところに福音の香りを漂わせて下さる、とパウロは言っているというのですね。

ここにおいでのお一人おひとりが、そのようなキリストの勝利の行進に連ならせて頂いているのですね。

まあキリストの香りがする人などと申しますと、何か非常に敬虔で崇高な人をイメージさせる方もおられるかも知れませんが。実はそういうわけではありませで、ここにございますとおりそれは「キリストを知るという知識の香り」なのです。

 

旧約聖書においては、人の罪が贖われるため動物を献げ、祭司がそれを屠って焼き尽くし、その立ちのぼる煙は神の怒りをなだめる香りとされたということです。

しかし、新約聖書に至っては、神の御子であるイエス・キリストが完全な贖いの供え物として自らをお献げになった、このキリストの贖いの香り、神の救いと慈愛の香りであります。

キリスト者はこのキリストを知る、という知識の香りを神から賜っている、ということであります。ですから自分がなにか芳しい香りのするような人間になろうなどと無理することではないんです。私共がキリストの贖いの業、神の慈愛を知って、受け入れ、キリストの勝利の行進に連なっていくとき、その香りは充満し、その周囲に放たれるのです。

 

さらに15節には「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」とあります。

 

そのようにキリストに従う道を私たちが辿る時、私たちはキリストによって神に献げられる良い香りなのです。しかしその香りがすべての人に良いものとして受け取られるとは限りません。

それはヘンな例かも知れませんが。私がオタフクソースをどんなに良い香りだと思っても、他の人がそう思うとは限りらず、むしろ気分が悪くなる人もいるでしょう。

 

キリストの香りそのものは救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても良い香りでありますが。香りをかぐ人によってはそれが死に至らせるものとなり、命の香ばしい香りともなるのです。

 

キリストの香ばしい福音は、その受けとる人の応答次第で、命ともなり、滅びともなるのです。それは、キリストの香りである福音が死を招くというのではなく、神の愛と恵みの福音を退けることによって自ら死を招く、ということです。

先にもお話したローマの将軍と兵士が凱旋するときには数多くの捕虜を携えていましたが。その捕虜たちは凱旋行進と香を焚くその時が終わると、自分たちが処刑されるほかないことを知っていました。勝利に与る者にとっての芳しい香りが、彼らにとっては恐れと死の香りでしかなかったのです。

私がそこから思いましたのは、ここにキリストの勝利の行進に連なる者の生き方も問われているということではないでしょうか。

その行進が救いの道を辿っているのか、否か。キリストの香りそのものは福音なのですが、その福音をどう受け取り、どう行進に連なってその道をあゆんで行くか。キリストの勝利を自らのも確信し、その喜びと感謝:今年の大阪教会のテーマですが。そのように賛美に生きてゆくか。はたまた、勝利の香りが異臭であるかのように受け入れ難く喜びのない行進となるのか。

 

水野源三さんという方をご存じの方もおられるでしょう。この方は9才の時、病で目と耳の機能以外すべて失い話すことも書くこともできなくなりました。やがてクリスチャンとなった彼は、目の動きで50音の表を示すことで、47才でこの世を去るまで神の救いを見出した喜びを伝えるすばらしい詩を生み出し続け、多くの人々に励ましと勇気を与え続けてくださいましたが。

その1つをご紹介します。

 「悲しみよ」

悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう お前が来なかったら つよくなかったなら

私は今どうなったか 悲しみよ悲しみよ お前が私を

この世にはない大きな喜びが かわらない平安がある

主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ

 

私どももキリストの福音の「命から命に至らせる香り」の中で、その勝利の行進に連ならせて頂きたいですね。

パウロはコリントの信徒たちに向け17節で、「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」と言っています。

そこにはあたかも物売りのようにする多くの偽教師たちがいたのです。神の言葉に混ぜ物をして売りものとするような者たちが入り込んで、巧妙に人々を騙し、実質的な被害を与えていたと思われます。

パウロは、御言葉を自分勝手に解釈して利益を得ようとしたり、人気や賞賛を得るための道具とする者らへ警戒を促します。

パウロ自身、ある人たちから使徒として不適格だと非難されながらも、キリストと出会った証言者として、ただ主から受けた恵みと力だけを愚直に伝え続けました。それこそが本物です。

 

私たちが日々の生活の中で主の福音を生き、「喜び・祈り・感謝」の証しの人生をあゆむとき。命の香りを放つ者とされていきたいですね。

愚直に主の福音に生き、証しし、その命から命に至らせる香り、その恵みの証人とされていきたいです。

私たちも又、キリストによって神に献げられる良い香りを放つ者として、主と共に勝利の道を歩み続ける祝福を祈り願いながら、今日もここから遣わされてまいりましょう。

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