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ペトロの裏切りとイエスの愛

2016-03-13 15:36:50 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ18:15-27 レント(受難節)Ⅴ

このペトロがイエスさまを否む場面はマタイ、マルコ、ルカとすべての福音書に記載されているのです。それだけ弟子たちや初代教会にとって深い示唆を与えるペトロの証しであった、ということでしょう。なぜなら初代教会は激しい迫害を経験しなければならなかったからです。そしてヨハネ福音書だけは、そのペトロの否認の間にイエスさまが大祭司から尋問を受ける記事が挿入されています。まずそこに焦点を当て、この出来事から聞いていきたいと思います。

この箇所の前段ともなっています13章36節以降をちょっと開いてくださいますか。新約聖書(新共同訳)p.196 です。そのところでイエスさまは、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」とペトロにお語りになります。それに対してペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命まで捨てます」とイエスさまに言うのです。するとイエスさまは「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と、そのようにペトロがご自分のことを否認する予告をなさっておられたのです。

イエスさまが「わたしの行くところ」とおっしゃったのは、神の御子だけが行くことのできる十字架の受難の道、罪の贖いによって救いを成し遂げるための道でした。
ペトロはイエスさまが敵対者によって殺害の危機に直面していることはどこかで感じていましたから、「なぜ、あなたは一緒に行き、死のうと言ってくださらないのか。わたしはあなたのためなら命を捨てる覚悟はできています」と、そう公言したのです。
ペトロは心から純粋にそのように願い、その思いに偽りはなかったと思います。けれどもイエスさまは、そのペトロの決意がどれほどもろいものかをすでにご存じであられたのです。

さて、いよいよイエスさまが捕えられて大祭司の家に連れて行かれた時のこと、ペトロは大祭司の知り合いであったもう一人の弟子とその後を追ってゆきました。そうして家の外門で様子を伺っていたのです。そこへそのもう一人の弟子が、門番の女中に話をつけてペトロをその庭に入れるようにしました。彼はおそらく12弟子ではなく、多分地位のあった役人か議員であったようです。そうして大祭司の家の庭に入ることができたペトロは、まず門番の女中から言われます。「あなたも、あの人(イエス)の弟子の一人ではありませんか。」
すると、ペトロはとっさに「違う」と否認します。又、大祭司の僕や下役たちが寒い中「炭火」をおこして火にあたっているところにペトロも一緒に立って、火にあたっていると、ペトロはその人々から、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言われます。すると、ペトロは再度「違う」と打ち消して否認します。決定的だったのは、そこに大祭司の僕の一人でペトロに片方の耳を切り落とされた人の、身内の者がおり、その人が「園であの男(イエス)と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」と、問いただされてしまうのです。これはまあ公然と見られていたわけですから、ペトロには否定しようもないことであったはずです。にも拘わらず、彼は再び打ち消して、イエスなど知らない、関係ないと「否認」してしまうのです。ほんの数時間前に「あなたのためなら命を捨てます」と、イエスさまに公言したペトロはどこにいってしまったのでしょう。彼はその忠誠心をもってどこまでもイエスさまについて行くと考えていたのです。ところが、肝心要の時が来て、実際に自分が窮地に追い込まれてしまうと、そういうものはどこか吹き飛んでしまいます。彼は自分を守ることしか考えらない弱さ、もろさをまざまざと突きつけられるのですね。

さて、そのようなペトロの状況に挟まれるように、19節から24節には「イエスさまが大祭司から尋問を受ける」場面が記されています。ここでのイエスさまは、周囲がみな自分をおとしめようとする中、唯一人ご自分の言うべきことを口になさるのです。

イエスさまは、大祭司から「弟子のことや教えのことについて」尋ねられます。それはその答えからイエスを死刑に処する口実を拾うためでした。それに対してイエスさまは、「自分は、世に向かって公然と話した。ユダヤ人が集まる会堂や神殿の境内で教えた。  
ひそかに話したことは何もない」と、いわば、何らやましいことなど一切ないことを明言なさいました。

そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスさまを平手で打ったのです。そこでイエスさまは「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と権力の横暴を正し、問われます。何という権威のあるお言葉でしょうか。それはまさに天の父とイエスさまとがつながっている確信から発せられたものであったと言えるでしょう。それは又、窮地に追い込まれる中で言うべきことを言えないペトロと、権力者の前にあっても正しいことを明言なさったイエスさまが対照的に浮かびあがってきます。
自分の身を守ることしか考えらない弱さをさらす以外なかったペトロ。
人間の持つ情熱や感情から来る正義感や忠誠心など如何にもろいものであるのかを、聖書は赤裸々に示します。けれどもそれは、決して人ごとではなく私たちの姿でもあるのではないでしょうか。あの、遠藤周作さんが知り合いの神父と食事をしている時、「もしあなたが踏み絵を前にしたならどうするか」と尋ねたそうです。するとその神父は顔色を変え、「いや、わからん。そんなことはその時になってみなければわからない」と言ったそうです。
そのような状況が万が一直面することになったとしたら私たちはどうするでしょうか?もはやきっぱりと「私は大丈夫」「絶対どこまでもついて行ける」とは言えないのではないでしょうか。ではそのようなペトロは、又、私たちはもうだめで主の弟子として生きる資格がないと、主から言われたならもはや救いはそこにはないでしょう。
けれどもイエスさまはそんなペトロのすべてをご存じで、「あなたは鶏が鳴くまでに、3度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告しつつも、先週の16章のところでイエスさまは「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」と言われているのですね。

ペトロがイエスさまのことを三度否認した後すぐ、「鶏が鳴いた」と書かれています。
ルカ福音書には「主イエスが振り向いてペトロを見つめられ、ペトロは主の言葉を思い出して激しく泣いた」と書かれてあります。ペトロはこの時、どれほど深い主イエスの愛とゆるしを知らされたことでしょうか。
その後、ペトロはぬぐってもぬぐいきれない自責の念とともに、すべてをご存じの上でゆるし受け入れてくださった主イエスの愛によって再び立ち上がって行くのであります。このヨハネ福音書の21章には、他の福音書には記されていない復活のイエスさまが再びペトロと会われ、「わたしの羊を飼いなさい」と牧会者として招き、ペトロはそのイエスさまの招きに応えていく独特のエピソードが記されているのです。その後ペトロは初代教会において牧会的働きをもってイエスさまに従っていったのであります。
それはもはや、世の忠誠心や使命感というものではなく、唯、自分のように弱く、罪深い者を赦し生かしてくださる十字架の主の愛のゆえでありました。

そしてペトロと同様、主イエスをおいて逃げ去った他の弟子たち、又キリスト教会とその信徒を迫害した後に回心したパウロも、初代教会の人々も皆、自らの罪深さと弱さの中で本当の意味で主の愛を知らされ、その愛を、救いの福音を伝え、証しする弟子とされていったのです。私たち一人ひとりも又、その主の愛と救いを頂いて、主の弟子として生きる召命に与かっていることを今日おぼえたいと思います。
それはまさにヨハネ福音書15章16節以降にこう書かれているとおりです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

私自身、ほんとうにこの主の愛とゆるしがなければ到底立ち得ない者であることをつくづく思い知らされています。日々祈らされ主の救いに与らなければ到底務めを果たしてゆくことができません。自分の能力や思惑、計画で立っていこうとするのなら主の栄光を現わすことはできません。なぜならガラテヤ書5章6節にあるように「ただ愛によって働く信仰だけが尊い」からです。その愛はまさに、今日私たちが聞いた主イエスの愛であります。
キリスト者はいつもその主にみもとに立ち返っていかなければ、逸れていってしまう存在だということを肝に銘じておくことが大事です。主は私たちが弱さや失敗の中にも主の愛を知り、その救いによって互いに愛し合うキリストの弟子とされていることを喜んでおられます。今日から新しい週が始まりました。今週も日々のあゆみの中でそれぞれが主の前に出て祈りつつ、主の愛に生かされて、その恵みを分ち合っていく者とされてまいりましょう。
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