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神から逃れるヨナ

2012-11-04 20:49:59 | メッセージ
宣教 ヨナ書1章1節~2章1節 

本日から2週に亘り旧約聖書のヨナ書から御言葉を聴いていきます。
ヨナ書は不思議な書物です。旧約聖書の他の多くの書物はイスラエルの選びと救いの歴史が記されているのですが、このヨナ書は異教の世界、それもイスラエルに敵対するような国の救いが記されているのです。また、主人公のヨナは巨大な魚の腹に3日3晩のみ込まれていたり、やたら怒ったり、へそ曲りの所があったりします。
どうしてこの寓話のような物語が旧約聖書39巻の中に組み込まれたのでしょうか。このユニークなヨナという人物を通して示される神からのメッセージに耳を傾けたいと思います。
北イスラエル及び、南ユダの歴史は、たえず巨大な周辺の諸国家に脅かされ続けていました。そして遂に北イスラエルと南ユダは滅亡し、人々は捕囚として異教の地に連れて行かれます。そして永い年月を経てようやく捕囚から解放されたイスラエルの民はユダの地への帰還が叶うわけでありますが。そして先週迄読んできましたエズラやネヘミヤらが、主に背いた過去の歴史を悔い改め、主がモーセを通して与えられた律法に立ち帰って、主を畏れて生きるようにと、民を促し、神殿の再建がなされていきました。いわばイスラエルは神の民として国家再建を成し遂げたわけですが、しかしその一方で過剰な選民意識が次第に強くなってきたのです。
それは排他性や独善化につながり、偏狭なナショナリズムへと傾斜していきます。イスラエル以外の異教徒は滅びる外ないという偏狭で急進的な民族主義の形態を強くもっていたのです。
このヨナは、そういった偏狭な教えや信仰を固持していたイスラエル共同体の、象徴的人物としてここに登場いたします。主はそのようなイスラエルをたしなめ、悔い改める者にはたとえ異教徒であっても憐れみと救いを与える全世界の創造の父であられる。イスラエルは先に選ばれた民として、主の救済を告げ知らせるように招いている。それがヨナ書なのです。

さて、本日はヨナ書1章を中心に、「神から逃れようとするヨナ」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
主の言葉がヨナに次のように臨みます。「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。」 
ニネベはかつてイスラエルの宿敵大国アッシリアの首都として栄えた町です。ヨナの使命はこの町に行き、その罪を指摘し、主の言葉を伝えることでした。けれどもヨナはこの主の命から逃れ、正反対のイスパニア(現・スペイン)東部の町タルシシュ行きの船に乗り込むのであります。
「そんな異教の敵国に行くぐらいなら死んだ方がまし」というようなところでしょうか。
ヨナにしてみれば主の目の届かない遠いところに迄とにかく逃れようと必死だったのでしょう。しかし、主が大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりになります。
船員たちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を投げ捨てて、船を少しでも軽くしようとしたわけですが。そういう中、ヨナはまあやっと主から逃れられたという安堵もあってか、船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいました。自分たちの神に向かって必死に祈り助けを求めている異教徒たちの姿と、主から逃げ安堵しているヨナの姿とは何と対照的でしょうか。船員たちは異教徒でありましたが、その姿は敬虔で信仰深いのです。
船長は船底で寝ているヨナのところにきて、「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない」と言います。ほんとうにどちらが信仰者か、宗教者か分かりませんね。
すると、この大荒れは海の神の怒りの原因からくる、誰が怒らせたのかを割り出すためにくじを引こうということになり、それが又、ヨナに当ったというのです。
そこで、ヨナは自分の身の上について、「ヘブライ人で、海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」と言い、神から逃れようとしてきたことを人々に白状してこう言います。「わたしの手足を捕えて海に放りこめばよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのいせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったからだ。」それは、どこかふてくされているようにも聞こえます。悔い改めの余地もないほどヨナの心は頑なであったのであります。
船員たちは神を畏れてすぐにはヨナを海に投げ込もうとしませんが、しかし大嵐は一向におさまらず海がますます荒れ、襲いかかってきます。すると、何と異教徒の乗組員たちが、イスラエルの神「主に向かって祈った」というのですね。彼らは「ああ、主よ、この男の命ゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」と祈るのであります。そしてヨナを海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まり、それを見た彼らは、ヨナが背いた「主を畏れ、礼拝をささげた」とあります。
 頑なにどこまでも自分を正当化するヨナ。敬虔な思いをもって礼拝する異教徒。何だか私たちの信仰の姿勢までも問われる気がいたしますが。

さて、本日の1章の中には3度も、ヨナが「主から逃れようとした」という言葉が繰り返されています。そこには、敵国であった大国アッシリアのニネベに行くことへの恐れや不安も確かにあったのだろうと思います。が、来週読むことになる4章には、敵国の異教の人たちに神の憐れみが及ぶことが、ヨナにとって到底受け入れ難い、許されないことであったということが書かれています。言うならばヨナにとって神はイスラエルだけの神であり、イスラエルは神の民、選びの民であったのです。自分たちは異教徒や異国の人たちとは違うのだというヨナの偏った愛国心は、異教の人たちに救いがもたらされることを許しません。主は「呼びかけよ」と、おっしゃっているのに、ヨナは頑にその主の前から逃れようと船に飛び乗ったのです。聖書教育にも書かれていましたが、ヨナにとって究極の安心は、ニネベが滅びることにあったのではないでしょうか。

この1章を読む時、ヨナをはじめ、当時いわゆる一般的なイスラエルの人々が抱いていた異教徒や異国の人たちに対する先入観や価値観、又モノの見方や考え方が、見事に覆されていることが分かります。如何にヨナよりも彼ら異教徒や異国の人たちの方がよく神を畏れ敬う者であったか。海が静まったのを見て、彼らは天地万物を支配し、治めたもう主を畏れ、礼拝しました。彼らもまた心の奥底、魂の淵において生けるまことの神、主を求めていた人たちであったのです。それをどこかもうはじめから先入観や偏見の目でもって見下し、神の愛と救いから除外して分け隔て、決めつけていたヨナでありました。

先週の礼拝宣教でもご紹介しましたが。沖縄を知るという人権デーにおいて大正区の「関西沖縄文庫」主宰の金城馨さんのお話をお聞きしましたが。このような事をおっしゃっていました。「正しいことを主張すると対立する。正しいことではなく間違いを正す。正しさを強調すると、大きい方、力の強い者、数の多い方が弱い側、小さい者を同化していく。だから正しさは共有できないが、間違いなら共有することができる。」何よりも沖縄の歴史を重ね合わせてそうおっしゃったのですが。
それは私たちの人間関係においても当てはまることです。自分の主義主張や正しさを押しつけるなら、相手を傷つけ、対立から争いが生じます。しかし間違っていること、おかしなことなら、「アカンもんはアカン。」それを他者と共有していく事はできるでしょう。  
そして金城さんはもう一つ、「戦争と平和は同義語」という事をおっしゃっていました。一般的な常識なら戦争と平和は反対後、対立用語です。けれど平和のためといいながら戦争をする。正義という大義のもとで戦争が実際にまかり通っているのが現実です。力や声の大きい方、数の多い方が判断基準、いわば正義になって、他は間違っていると決めつけてしまうことは非常に危ういことであります。いつの時代も愛国心、正義、美徳、聖戦のかけ声のもと、人間とは言い難いような殺戮や制裁が歴史上数知れず繰り返されてきました。
今の世界や日本の社会状況は、経済は災害や不況で閉塞し、ほんとうに多くの悩みや問題に囲まれ、現在と将来に対する不安や不満がつのっています。そう言う時に、どこか一つにならなければ的なキャンペーンによって、安心と信頼を安易に提供しようとする動きに対して、やっぱり私たちは危機感を持つ必要があります。

さて、本日の箇所に戻りますが。
海に投げ込まれたヨナでありましたが。主なる神さまはヨナを巨大な魚に命じて飲み込ませ、その命を救われました。これは主がヨナの存在を必要とみなされたということであります。彼はニネベに主の言葉を呼びかけるため立てられたのです。主の召しは変わりません。
ヨナという名前はヘブル語で「鳩」を表すそうですが。鳩といえばノアの箱舟が陸地に辿り着いた最初に、水が引き外に降り立つことが出来るかを知らせた生き物ですね。それはまさに神が虹の契約によって約束された平和を知らせるため放たれた生き物であったのです。クリスチャンでなくとも鳩といえば平和を象徴する生き物とされていますよね。そのようにこのヨナもまた、まことの平和・平安をニネベの町に発信していく使者として立てられていくのですね。

海に投げ込まれたヨナは主の深い御計画のなかで命を救われます。3日3晩魚の腹の中におかれ、そこにいなければなりませんでした。彼はもはや逃げようもなく主と一対一で向き合い、祈り続ける中で、主の御憐みに気づかされ、主に立ち帰っていくのであります。
2章10節で彼はこう告白します。「わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは主にこそある。」ヨナはまず主の前において整えられていく必要があったのです。
ヨナは主に立ち帰って本当の平安を見出しました。逃げたくなるような現実、逃避したくなるような重荷、しかしどんなに逃げても真の平安は決して得られません。
私どもにとってこの魚の腹の中とは、主の日の礼拝であり、また月に一度の主の晩餐といえましょう。また御言葉と祈りのうちにその力と平安が与えられます。まず、私たちそれぞれ一人ひとり、主の前に意味をもった存在として御前におかれているということを覚えながら、この恵みの礼拝に与り、この礼拝から主の平和の使者として遣わされてまいりましょう。
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