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神の方向転換

2012-11-11 17:35:26 | メッセージ
宣教 ヨナ3章1節~4章11節 

①「隠された神のご計画」
本日は先程読んで戴いたヨナ書3章から4章より「神の方向転換」といういささか刺激的な題をつけさせて頂きましたが、この所から御言葉をご一緒に聞いていきたいと思います。
先週は1章より「神から逃れるヨナ」の場面を読みましたが。北イスラエルにとって宿敵ともいえるアッシリアのニネベ行って、御言葉を語れと言われたヨナでしたけれども。それとは正反対に向かう船に乗って神から逃げ出します。しかし主によって起こされた大嵐を静めるため海に投げ出されるも、2章のところでは、神が遣わされた大魚に呑まれてその腹の中に3日3晩滞在することになるという、何ともおとぎ話のようでありますが。まあそれが本当に起こったのか寓話であるのかはさておき、このヨナ書に込められた聖書のメッセージを受けとることが大事です。
そのようにして命を救われたヨナでありますが。大魚の腹の中で感謝と悔い改めの祈りをささげます。神から逃れることに平安を見出そうとしていたヨナは、逆に神の御手のうちに生かされていることに真の平安、魂の憩いを見出したということを、その祈りから読み取ることができます。まさにヨナは、放蕩息子の物語のように、神のもとに立ち帰り、そればかりでなく生かされている意義を見出し、それを果たしていく決意を表明します。
そのヨナに主の言葉が再び臨みます。「大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」
それはヨナが初めに受けた召命と同じ言葉でありました。一度は逃げたその同じ召命。それを再び受け取り直して、今度は主の命令どおり直ちにニネベに行き、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と宣言するのです。神のもとに立ち帰ったヨナは、直ちに神の言葉に従っていきます。

さて、ヨナの宣言を聞いたニネベの王とすべての民は5~9節にあるように、徹底的に神に立ち帰り、悔い改めます。ニネベの人々は何とヨナの呼びかけで「神を信じた」というのですね。そもそも神がニネベにヨナを遣わされたのは1章1節にあるように、「彼らの悪が主の前に届いている」からであります。ニネベの人々はその悪というものを自覚していたのではないでしょうか。けれどもそこに神の言葉はなかった、語られていなかった、のであります。彼らの魂は飢え渇いていたのではないでしょうか。先週も言いましたが、「あかんことはあかん!」という父なる神の御声をニネベの人々は必要としていた。むしろ待ち望んでいたのではないでしょうか。世間の多くの人々にとって聖書のことばは取っ付きにくいものだ、と考えてしまいがちですが。実にどれだけ多くの人が神の言葉を必要としているかわかりません。先日の新聞に「あなたの人生に影響を与えた本ベスト10でしたか、その調査結果として聖書はダントツの1位でした。先入観を棄てて様々なかたちで福音を伝え続けることに、期待をもって望むべきなのですね。
ニネベの人々について普通に考えてみますと。一人のイスラエル人ヨナが一日中裁きの言葉を叫んだとしても、このように国中挙げての悔い改めが起こることは想像し難いことです。これは神のみ業以外の何ものでもないのです。
「あと40日すれば、滅びる」というヨナの言葉は、表向きニネベの滅びの宣告でした。
しかし、主のご計画はもっと奥深ところにあったのです。
この「40日」というのは、単に災いや滅び迄のカウントダウンではないのであります。その災いがくだされる前に、40日という時間が与えられているということです。そこに隠された主のご計画があったのです。神は不思議なかたちでヨナを用いて、異邦の王と民の心を揺さぶり、動かされ、ニネベ全体を悔い改めへと導かれたのであります。
そして10節にあるように、「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告の災いをくだすのをやめられた」のであります。ここには「神が思い直された」と述べられておりますが。それは「神ご自身が方向転換された」ということであります。神は異邦の王と民が徹底して悔い改めていったその姿をしっかりと御覧になっておられたのです。
徹底した悔い改めによって、神の御憐みを体験することになったニネベの民。悔い改めるとき、神さまも又、改めて人と向き直ってくださる。そのような和解の福音がここに示されているのです。ここに神の隠されたご計画であったのです。

②「ヨナの怒り」
そうして災いを免れることになった二ネベの都でしたが、ところがです。
4章に入りますと、ヨナにとってそのことは大きな不満となり彼は怒って、主に訴えます。主がニネベに災いをくだされることを思い直されたことが、ヨナには大きな怒りとなったのです。何ともおかしなことですが。ニネベに対する神の怒りがおさまると同時に、ヨナは怒り始めたのです。それは主に対する不満へと突き進んでいきます。主なる神の憐れみとゆるしがニネベの民にも与えられる事に対し、ヨナは不満を露わにし、主に敵対します。
「だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしにはこうなることがわかっていました。」何とまあヨナはこうなることがわかっていた、だから来たくなかったのだと言うんですね。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみ富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」と主にありったけの皮肉を込め、訴えるヨナ。それはもう駄々子のようであり、魚の腹の中で3日間祈り、主に立ち返ったあの同じヨナなのかと耳を疑いたくなります。
しかしこれは、信仰生活を営む私たち自身の姿でもあるなあと思わず苦笑してしまいます。ある時は熱心に悔い改め、涙とともに賛美するかと思えば、自分の願いや、それが満たされない不満でひっくり返って駄々をこね主に不満をぶつける。それが人の弱さ愚かさでありますが。
ヨナはニネベの人々から、「おまえは俺たちが滅びると預言していたのに、言っていることと違うじゃないか。おまえは偽預言者だ」と中傷されることを恐れていたのでしょうか。何よりも、ヨナにしてみればイスラエルに敵対する悪の異邦人を主が滅ぼされないことに我慢ならず、許せなかったのでありましょう。

主はヨナに言われます。「お前は怒るが、それは正しいことか」。主はそんな激しいヨナの怒りに対し、「わたしに逆らうのか」とか。「わたしが間違っているとでも言うのか」などとはいわれません。主は頭ごなしにヨナを叱りつけるのではなく、まるですねた子を諭す父親のように、「お前は怒るが、それは正しいことかどうかよく考えてみろ」と促し、静かにヨナに問い返されるのです。
ここで、主は「怒り」の感情自体を否定されていないことがわかります。「怒ることが正しいことかどうか、自らの心に聞け」と問われます。

新約聖書の主イエスについての記事を読みますと、主イエスが激しい憤りをおぼえられることや怒られるいくつかの場面がございます。「怒り」というもの自体、これは神が人間に与えられた感情です。大切なのはそれがただ自己中心な怒りであるのか、あるいは不義に対する怒りであるかどうかということです。そのことがヨナに問われているのです。イエスさまが持たれた怒りは人の命を損なう不正や搾取に対するものであり、神の義と憐れみが軽んじられることに対しての怒りでありました。自己中心的な怒りとは全く異なります。囚われた観念や思い込みによって人を裁いたり、排除する怒りには憐れみなど入る余地はありません。主はそこをよく考えてみなさいとおっしゃったのです。

③「主の憐れみ」
しかしそれでも納得がいかないヨナは、ニネベの町はずれに小屋を建て、日差しを避けてそこに座り込み、都で何が起こるかを見届けようとします。つまりヨナは神の上に立って神のなす事を監視しようとしたのです。「神よ、あなたはこうあるべきだ」という高慢なヨナがそこにいました。
すると、主はここでもヨナを叱りつけ糾弾されるどころか、何と「彼の苦痛を救うためにとうごまの木を生えさせ、ヨナの頭上に日陰をつくらせた」のです。するとどうでしょう。「ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ」とあります。まるで子供のようですが。
ところが、主が命じ遣わされたほんとうに小さな虫によって、たった一晩でそのとうごまの木は食い荒らされ枯れてしまいます。また日が昇ると主は、今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられます。ただでさえ暑いのに、ものすごい熱風と太陽の日差しにさらされたヨナはぐったりとなり、「生きているよりも、死ぬ方がましです」と再び怒りをぶつけます。
すると、主は4節でヨナに問われたのと同じように、「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」と言われます。それに対してヨナは、自分を正当化しようと、「わたしが怒るのは当然です。もう怒りのあまり死にたいくらいです」とつっかかるのですね。
そして主はヨナにこのように言われます。
「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜に生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

この「惜しむ」とは、「憐れみ(慈愛)の目で見つめる」という意味であります。ヨナが一夜で枯れたとうごまの木さえ惜しんで見つめるとすれば、主はどれほどの憐れみと慈愛のまなざしでニネベの都と、そこに住む人々を見つめておられたことか、と聖書は語っているのです。

主のお造りになったこの世界、主はどの国も、どの民族も愛しておられ、立ち返って生きることを切に望んでおられます。また、主はすべての生きとし生けるもの、それは人間だけではありません。地球上の自然界すべての生き物が命与えられた存在として輝いて生きるようにと、その命を追い求め、熱い思いで見つめておられます。主は生きとし生ける一つひとつの命に対してまことに敏感であられます。主はすべての命が主に立ち帰ることを願ってやみません。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3章16節
実に、主なる神さまは、それ程までして私たちが救いに与って生きることを切に望んでおられます。

④「福音の拡がり」
ヨナ書を2度に亘って礼拝で読んでまいりましたが。ヨナ書には神さまが大風、巨大な魚、とうごまの木、虫、東風にお命じになるという場面等が出てまいりますように、主は世界のすべてのものを造り、治めておられる神であられます。そして神はそれらの自然界の生き物が滅ぶことを決して望んでおられないということです。その神の使命のために私たちも主と共に働き、仕えて生きる者であるのです。

主が世界宣教へヨナを遣わしたのは、偏狭なヨナの心が変えられていくことでもあったということを申しましたが。このヨナ書はユダヤ・イスラエル民族の偏狭さを指摘すると共に、神がヨナを世界宣教へ送ることを通して、神の和解の計画、すなわち福音の拡がりが遂行されていくことが一つの大きなテーマとして語られているのであります。

私はいつも礼拝宣教の冒頭で、「お帰りなさい」と挨拶をいたします。それはここが神の家族、その「ホームベース」であるからです。私たちはこの礼拝で、主をほめたたえ、み言葉に正され、また慰めや力をいただくわけですが。それだけで終わりません。同時に礼拝で頂いた恵みすなわち福音を携えて、私たちがこの地上の生かされているそれぞれの場所に遣わされていくのです。ですから礼拝の最後の祝祷は「いってらっしゃい」という派遣の祈りであるのです。この地上にあって私たちそれぞれが主の福音をもたらす器として用いられ、そのことによって家庭が、近隣が、職場が福音の広がりで満たされていくように祝福を祈り、働き、共に主の福音の豊かな恵みに与っていくために、みなさんお一人おひとりがその召しに与っておられるのです。

主イエスの大宣教命令のお言葉を読んで本日の宣教を閉じます。「全世界に出て行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」この大宣教命令は、私たち自身が、又教会が解放され、ひいてはこの国が、世界が刷新されていくことにつながるのです。祈りつつ、主のみ言葉に聞き従ってまいりましょう。
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