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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

自己完結しない、、、続ける信仰

2010-01-17 08:23:10 | メッセージ
宣 教 Ⅰコリント1:15-25

この箇所は、前の10~17節をご覧になると分かりますようにコリントの教会の中に生じた、「誰が偉いのか」「誰につくか」といったような言い争い・分派争いについて大変心痛めたパウロがその思いをコリント教会の信徒たちにしたためた、そういった箇所であります。
パウロは訴えます。20節「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」これはコリントの人たちには手痛い言葉です。彼らギリシャ人は哲学を重んじ一般の人々も道端で議論するような文化を持っていました。しかしどんなに探求しても世は自分の知恵で神を知ることはできなかったではないか、というのです。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった。この宣教とはまさしく「十字架のイエス」です。
人は自分の能力、又人の能力を計り、それに依り頼むとき、自己完結してしまいます。
よくできた、うまくできたで自己を誇ってただ終わるのなら、それは神さまに栄光をかえすことはできません。その結果、誰がやった、誰がやらなかったなどと裁き合いが起こるなら、このコリント教会と何ら変わりません。しかし、どんな時も救いの原点である十字架の言葉なるキリストのみ業を思い、謙遜にされて仕え合うとき、喜びは幾倍にもなり、御霊の実を結ぶことが出来るでしょう。
また、キリスト者の信仰は自己完結しない、、、「続ける」信仰であります。順風満帆な折ばかりでなく、弱さを覚えた時、又落ち込んだ時も、いやむしろそんな時にこそ、十字架にかけられたまいしままなるキリストが、今この私と同じように、いやそれ以上に呻き、痛みつつ、共にいて、執り成していてくださるという救いの現実を実感することができるのではないでしょうか。
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