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今も語り続ける十字架の福音

2010-01-24 08:14:18 | メッセージ
宣 教 Ⅰコリント2章1~5節

先日祈祷会の聖書の学びの時ですが、「人に自分の思いを伝えるということは本当に難しい」というような話題がでました。相手がしんどいときに、「がんばれ」「大したことなんかない」と言えば、それは逆効果でさらに相手をしんどくさせてしまうことがおうおうにしてあります。又、相手の気持ちを考えず、自分の土俵に相手を引き込んで持論を展開するようなことをしても相手の心には響いてこないでしょう。しかしもし、「自分も相手と同じような経験があるならば」、相手のきつさやしんどさを少しでも理解することができるし、共感をもって相手の話しを聞くことができます。又、相手も、そうなのかと身近に感じ、心を開いて耳を傾けることができるのではないでしょうか。一方的な教えでも単なる同情でもない「共感」。なかなか自分の弱いところを人にさらすのは勇気がいることかも知れません。しかしそれは、「私もまた、あなたと同じような経験をしたよ」との共感から、心を通わすということが起こっていくのでしょう。

使徒パウロはコリントの信徒の人たちに向け、「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵をもちいませんでした」と述べています。この「わたしも」というのは、十字架につけられたキリストのように「私も」、福音を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵をもちいませんでしたということです。さらに、彼は3節で「そちらに行ったとき、わたしも衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と自らの弱さをコリントの信徒たちのまえにさらけだすようにこう告白します。(新共同訳「も」が欠落)。彼は福音を伝え心通わすには、優れた言葉や知恵や頑張りではだめだということを痛いほど経験し、気づかされてきたのであります。本日の聖書個所は、1節と3節の「わたしも」というパウロの言葉、それがキーワードです。使徒パウロは十字架の福音によって滅びから救い出され者として、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決め」、そのキリストを宣べ伝えました。教会はまさに、この十字架につけられたキリストを証しし、その愛を分かち合うために呼び集められた群であります。そのようにあり続けたいものです。
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