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キリストに与えられた自由

2025-05-25 14:17:45 | メッセージ
礼拝宣教   ガラテヤ5章1-15節 

来月の6月は神学校週間を迎えますが、私は2つのタイプの神学校で学ぶ機会がありました。今ではそれはほんとうによかったと思えております。1つ目の神学校は、生活のあり方について1つ1つ指導があり、時にはプライベートな面にも干渉がありした。神学寮は元学長宅で、学内にある一軒家で、事細かな寮則が設けられていました。20歳過ぎても寮内は禁酒禁煙です。門限はなかったですが、毎日晩祷という夜の祈り会と朝6時前には早天祈祷会が行われ、入寮する3人が一緒に寝泊まりし、自炊の共同生活を2年間続けました。確かに指摘されないと気づけないこともあり、知らない間に人に迷惑をかけることもあったので、そういったことを教えて頂いたのは良かったとも思えます。が、一方で指導や指示を守り、従うことが重要であるかのようになって、それが「安全」「安心」「良いこと」というところにはまり込んで、自分で考えようとしないようになってしまう恐れもありました。もちろん学ぶ機会と教派を超えた交流、経済的にも支援を戴き、学生生活が守られた事には感謝が尽きません。
もう1つの神学校は、4年間学びと共同の生活の機会が与えられました。こちらは前者の神学校とは対照的でした。本学が神学部から離れた場所にあり、そちらで一般教養を学ぶ機会もあり、生活面でもわりと自由な校風で、こちらも独身寮でしたが、一人ひとりにお部屋があり、事細かな校則は何もありませんでした。ある意味、生活のすべては個々人の学生にゆだねられており、放任というと言いすぎかも知れませんが、それで痛い目に遭う体験をもしましたのも、自由な中でも自分が一体そこで何をどう今なしていくのか、それがいつも問わる毎日は、学びの連続でした。「自由」というと聞こえはいいですが、それは何をしてもいいというわけではなく、それをしないのも自由です。その中で自分はどうあるか、どう生きるかを選びとっていく事が大事だと気づきました。
たとえばレポートと筆記の試験どちらが楽かといえば、まあ人によるのかも知れませんが、暗記して憶えてその回答を書く方がある意味楽じゃないですか。レポートは、決められた答えというものがありませんから、本や人と出会い、体験から自分で考え、それを構築していかなければなりませんから大変です。けれどもそれを仕上げた時の喜びはひとしおです。
このタイプの違った2つの神学校での学びと生活の機会が与えられ事が、今でも私に様々な物の見方を教えてくれるのです。

さて、先週は読んだ箇所から、ガラテヤの信徒たちは福音の真理によって主の御救いに与ったにも拘らず、土着の風習に惑わされ偶像や日、月、時節や占いに振り回される生活を送る人たちがいたことを知りました。日本に住む私たちにとって、それは決して人ごとではありません。
すると今度は、ユダヤの割礼をはじめ、諸々の律法規定、祭儀や儀式、慣習の下で、~であらねば救われない。~割礼を受けなければ神の民ではないなどと、主張するユダヤ人の信徒たちがいて、異邦人のガラテヤの信徒たちはその教えに囚われ、縛られて、再び神ならざるものの奴隷として仕えていく虚しい生活に逆戻りようとしていたのです。
彼らの信仰の導き手であり霊の親であったパウロは、この事態を大いに憂いてそのガラテヤの信徒たちに、「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」と、渾身の思いをこめ、忍耐をもって切に訴えたのです。これが先週の箇所でした。
パウロは続く4章21節以降で、「肉によって生まれた子」と「約束によって生まれた子」の2通りのタイプを示します。「肉による子」とは律法主義の下で囚われ奴隷の状態の人たち。一方、「約束による子」とは主イエスの十字架の贖いを信じて救われ、自由を得、神さまとの新しい関係に生きる人たちを示します。
そこでパウロは本日の5章1節で、「この自由を得させるため、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。13節でも、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。」と述べます。

本日は「キリストがわたしたちを自由の身にしてくださった」、その「キリストから与えられた自由」について、御言から聞いていきたいと思います。
このパウロ自身もキリストによって自由にされた、その一人でした。彼も以前は熱心なユダヤ教の律法主義者であり、唯信仰によって救われるというキリスト信徒に対して、激しい迫害を繰り返してきた人物でした。そういった彼の活動は、こうあらねばならない、こうしなければならないということを人に課し、力づく従わせようとしていたわけですが。それは実は自分自身も律法主義のくびきにかけられた奴隷のような状態であったのです。
そんな彼が決定的に変えられたのは、十字架と復活のキリストとの出会いによってでした。その出会いによって自分が如何にその慈愛と恵みをないがしろにしてきたかをさとり、そればかりか、その神の救い主、キリストを十字架につけて殺害したのは、ほかでもない自分であったことを知るのです。
パウロはイエスさまを肉眼で見たことはありませんでした。しかし、復活されたキリストがパウロと出会われたのです。キリストは唯、神の御憐みによってパウロの罪をゆるし、十字架の苦難と死を通しての罪の贖いによる自由と解放を与えられたのです。
だから、彼の「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」という言葉は、まさしく自身の救いの体験から発せられたものであったのです。

パウロは2節以降で、ガラテヤの信徒たちにさらにこう述べます。
「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたは、だれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」。
「割礼を受けよ」という言葉は「ユダヤ人化して神の民となれ」という事です。しかしパウロは、割礼を受けなければ救われないと考えていた人たちに、そのようなことをすれば「キリストの苦難と死」」「キリストの恵みによる御救い」は何の意味も無くなってしまう。それなら「律法のすべてを行う義務が生じる」と言うのです。
パウロがこれほどまでに訴えているこの「割礼」の問題は、キリストの福音の危機であると同時に、ガラテヤの信徒たちの割礼を受けた者と受けていない者との間に、激しい分断と分裂を教会において起こす問題となっていたのです。
割礼や律法主義を信奉し、それを宣伝していったユダヤの自称信徒たちは、「信仰も大事だけれど割礼も大切、本物になりたいだろうと、やんわり誘い」をかけ、うまくガラテヤの異邦人信徒たちを自分たちの側に取り込もうとしていたのです。甘い誘いで入って来た「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」(9節)ように、それがだんだんと膨らんで、キリストの愛によって結ばれていた群れが、分断と分裂を招く事態になりかねなかったのです。

かつてパウロは、律法を行うことに誰よりも熱心であり、自分の義、正しさを誇っては高ぶり、自分の考えと違う者を見下し、排斥していました。その高慢によって気づかぬままに神に敵対し、その行き着く先は滅びと死でしかありませんでした。
ガラテヤの信徒たちは、割礼を受ければ神の民として正式に認められるかのような話に影響を受けていました。その信仰の変質によって滅びの危機にあったのです。

そこでパウロはガラテヤの信徒たちに言います。
6節「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。
行いによって救われようとする彼らにパウロは、「愛の実践を伴う信仰こそ大切」と述べたのです。
この言葉を私が初めて読んだときは、愛の実践に重きがあるように読み取っておりました。が、そうじゃないんですね。ここの主体は「信仰こそ」とあります。「信仰」なのです。このキリストの「信仰こそ」が愛となって働くのです。パウロは愛のある働きをしなさいと教えているのではありません。キリストの救いの感謝と喜び、その信仰こそが愛を呼び起こさせる、と言っているのです。この順序がとても大事であります。

そしてさらに使徒パウロがここで、「愛の実践を伴う信仰こそ大切」である、と述べた愛の原語は、ギリシャ語でアガペー。エロスの性愛でも、フィレオの友愛でもなく、アガペー、神の愛なのです。これは大きな意味をもっています。人間のもつ情愛、ヒューマニズムによる愛ではなく、「神の愛」によって働く信仰こそが大事だと言っているのです。
先に交読文として読まれたコリント一13章の一部を、週報の表に載せていますので、読んでみましょうか。
その4節-7節の「愛」のところにご自分の名前を入れて読んでみましょう。
どうでしょうか。私はそのように生きられている方はすごいですね。けれど、自分はどれほど愛のない人間であるかを思い知らされるという方が多いでしょう。ではもう一度、今度は「愛」のところに「キリスト」ご自身のお名前を入れて読まれてみるとどうでしょうか。(間をおく)
神の愛の実践を伴う信仰とその生活。それは「私は愛がある」とか。「あの人は愛がない」とか。そういうところからは始まらないことがわかります。
私たちはキリストの救いが「神の愛」であることを覚え、その「神の愛」を受けることによって愛に生きる者とされているのです。それを毎日確認していくことが、神の愛の実践につながっていくのです。

パウロは今日の13-14節以降でこうも述べます。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉による機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです」。
この「愛によって仕えなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」の愛もアガペーの愛、神の愛、キリストの愛です。
では、その「神の愛」によって得ることのできる「自由」とは何でしょうか?
又、その自由を得るために召し出されたとは、どういうことでしょうか?

この手紙を書いたパウロはキリストを伝えるために、時に厳しく非難され、迫害され、投獄されることもありました。けれども彼自身の心はいつもキリストにあって自由であり、解放されていたのです。彼は敵対する者にもキリストを伝えたかった。それは彼自身がキリストの十字架の愛に救われ、満たされていたからです。その救いによって、彼は獄中から手紙を書いて人を励まし、力づけ続けました。その手紙は「喜びの手紙」と言われています。来週からそのフィリピの信徒への手紙を読んでいきますが。

真の自由とは、どのような環境や状況にも左右されるものではないものです。その自由は、自分だけではなく、他者をも解放し、自由にしていくものなのです。そしてそこには、キリストから与えられた真の自由、真の解放には喜びの伴う証が生まれていくのです。
主イエスは言われました。「御子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる」(ヨハネ福音書8章36節)。キリスト、神の愛に生きる自由に与って、私たちもこの与えられた自由、その神の愛の喜びを分かち合う日々を共にしてまいりましょう。

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