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聖霊の力と働き

2012-04-15 11:43:23 | メッセージ
宣教 使徒言行録13章1節~12節 

本日は使徒言行録13章1~12節より、「聖霊の力と働き」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
この13章は、シリア州のアンティオキア教会から世界宣教が始められた箇所であります。
そしてその働きのためにバルナバとサウロが立てられ、派遣されるのであります。これがいわゆる使徒パウロの第一回目の宣教旅行になるのですが。聖書の後ろの付録7に、その旅の行程図が記されていますのでご参照くださればと思います。本日の箇所はキプロス島における宣教で、その東部サラミスと西部パフォスでの記事であります。

まず、この二人を世界宣教に送り出す母体となったアンティオキア教会のことでありますが。本日の記事以前に、8章でフィリポがエチオピアの高官にイエスの福音を伝え、彼がバプテスマを受けたこと、又10章でペトロが百人隊長コルネリウスとその家族に福音を伝え、聖霊が降り、異邦人にも聖霊が降って救いが起こされていくという出来事がありましたが、まだ国や人種を越えたキリスト教会は存在していませんでした。その頃ユダヤでの迫害によってフィニキア、キプロス、アンティオキアにまで散らされたキリストの信者たちがいたのですが、彼らはその逃れの地において福音を伝え、救い主を信じる異邦人たちの数が多くなっていったのです。やがてエルサレム教会は聖霊と信仰に満ちたバルナバをアンティオキアに派遣するのでありますが、彼はタルソスでサウロ(後にローマ名でパウロ)を見つけ出し、二人はアンティオキア教会で丸一年多くの人を教えたと、使徒言行録11章に記されてあります。
本日の箇所13章冒頭に、「アンティオキア教会にはバルナバ、ニゲル(ラテン語:皮膚が黒い意)と呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた」とあります。バルナバはキプロス島出身、シメオンは二グロの名が示すとおりアフリカ出身、キレネのルキオはエジプト出身、マナエンはヘロデ王と一緒に育った者、そしてサウロは小アジアの出身と、ほんとうに様々な国や立場を越えた人たちが預言をなし、教えて、アンティオキア教会が形成されていたことが分かります。その中でバルナバとサウロは特に教会の中心的なリーダーであったのです。

さて、その5人のリーダーたちが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当らせるために」と、告げたというのです。礼拝し、断食していたということですから、彼らは何がしか新たな宣教のビジョンを切に願っていたのかも知れません。そこで彼らが祈っている中に聖霊は新しい計画をお告げになるのです。
けれどもどうでしょうか。バルナバとサウロはアンティオキア教会にとって中心的なリーダーであり、教会のこれからのために大切な役割を果たしていくはずの存在です。他のリーダーたちもいたわけですし、人間的に思えば二人には大きく成長するアンティオキア教会に留まって欲しかったに違いありません。しかし、ここで「聖霊が告げた」とあるように、人間の思いや考えによるのではなく、聖霊がバルナバとサウロが選び出したのです。それは何か彼ら二人の自分が行きたいと立候補してなったということではなく、神のご計画が二人をキプロス、小アジア、ローマ・ギリシャ世界に福音を伝える使者として選び、送り出したのであります。これから一体教会はどうなるのか?リーダーたちに痛手や不安の思いが少なからずあったのではないでしょうか。けれども、「彼らは、断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」とあるように、主の御手の働きに自分たちを委ねました。
こうしてアンティオキア教会は福音の使者を送り出す世界宣教の拠点となっていったのです。それは、派遣した教会も又、派遣される二人のために祈り、支え続ける尊い働きに召されたという事でした。バルナバやサウロはそういう背後からの祈りと支えによって主の働きをなすことができたのであります。そういった派遣する側と派遣される側の霊的なつながりを通して、益々豊かに主の福音がもたらされ、分かち合われていったのであります。

先日、ルワンダでミッションボランティアとして尊いお働きをなさっておられる佐々木さんご夫妻から、お礼状が連れ合いに届きました。それも連れ合いが「ルワンダに送った手紙はどうなったのかなぁ」とベランダで洗濯物を干していた時に思い起こしたその後に、丁度ルワンダからの郵便物が届いたというのです。それは昨年関西地方連合社会委員会主催で行われた平和祈祷集会の時に、子どもたちが平和の願いをこめたタペストリーを作ってルワンダに送った、その返事の手紙でした。うれしいお礼の言葉と共に、現地の少年少女たちが贈られたタペストリーを持って写っている写真がそこに入っていました。それを私も見せてもらった時、何かとっても心豊かにされましたね。ルワンダという遠い国のお働きなのに、それが何かとっても身近な事がらとして改めて感じられました。
わたしたちの地方連合や連盟の諸教会、又、神学校や世界宣教の事柄に関心を寄せ、その働きのために祈り、覚えることを通して、さらにさらに信仰の視野が広がり、豊かにされていく、そういう出会いや発見は真に素敵な主のみ恵ではないでしょうか。

またちょっと話がとびますが。歌人の穂村弘さんという方が新聞のコラムに「幸福を感じていますか」という問いに対して、次のこのような事を書かれていました。「先日、新幹線に乗ってスマートフォンでインターネットを見ようとしたらつながらなかった。「変だな」って思ったらトンネルの中でした。出るまでたった十数秒だったけれど、自分がものすごくイライラしているのが分かり、我ながら異様な感じがしたんです。だってトンネルを掘るのはすごく時間がかかるでしょう。新幹線を通すのだって、ネットを世界につなげるのだって、時間がかかった。僕はそのどれにも参加していないのに、「お客様」として、その膨大な時間の成果を自由に使えるわけです。新幹線の快適な席でコーヒーを飲みながら、ちっちゃなスマートフォンで世界中の情報を見ようとしている。夢のような状態のはずなのに全然幸福だと思っていなくて、これってすごいことだと思いました。お客様は無限にサービスされて当たり前だという感覚がいつの間にか細胞まで浸透している。そうすると、どんなに便利でも神様よりは不便だよな、となって、どこまでいっても満たされない。・・・中略・・・僕はもうお客様を降りたいという感覚です。」
わたしたちは主の福音が手元に届けられたことに喜びと幸せを感じているでしょうか。その恵みを当然受ける権利があるかのように、どこまでいっても満たされない人になってはいないでしょうか?連れ合いはルワンダまで船便の切手代僅か200数十円でタペストリーを送ったそうですが、それがきちんと遠いアフリカのルワンダにまでちゃんと届いたということに、私は改めて感動しました。今ならエアメールだと数日で届きますが。飛行機がなかった時代など考えられないことです。船便であれば、一体どれだけの人の労力と時間が費やされて、幾つもの海を渡り、大陸を渡り、国境を越え、人々の手を介してルワンダの現地に届けられていったことかと、思いますとやっぱり感動してしまいます。
わたしたちに主の福音が届けられるために払われてきた数知れぬ祈りと労力。献げられた犠牲、時間、お金。何よりもイエス・キリストがその命さえささげてくださった。その上に今の私の救いが、主にある平安がある。ほんとうに心から感謝したいと思います。

さて、今日のところはもう一つ「キプロスでの宣教活動」が記されています。
この地は銅山で有名だったことから銅という意味の「キプロス」と名付けられたそうです。
聖霊によって送り出されたバルナバとサウロはセレウキアの港からキプロス島に向け船出し、キプロス島東部の町サラミスに着きます。キプロスはバルナバが生まれ育った故郷でもありました。又、ユダヤの地で迫害にあって逃れて来たユダヤ人キリスト者たちが多く住んでいました。彼らはヨハネを助手にしてその地にあるユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせて廻りました。それから島全体を巡って西部の町パフォスまで行ったのです。キプロスは東西176キロ、南北80キロの大きさの島だそうですので、それを多分徒歩で廻ったことでしょうから、相当な時間を要したはずです。今なら車、交通機関もあるでしょう、数時間あれば島全体を巡ることもできるでしょう。が、しかし歩いて廻ることで、車では決して見ることのできない光景、出会いをバルナバやサウロら一行は経験したのではないかと想像します。大阪市内を知るのに環状線で一周すれば景色もそれなりに見えて便利です。車で要所を観光することもできるでしょう。そしてお好み焼きや串カツを食べれば大阪がわかったかと言えば、ちゃぁいます。やっぱり、そこでいろんな人との出会いがあって、いわば自分の足で歩いて初めて見えてくるもの、得るものがあるでしょう。
キプロスの島全体を歩きながら巡った彼らは、そういう出会いの中で福音を伝え、神の言葉を伝えていったのです。わたしたちは伝道という時に集会を開くとか、講師を招くとか、イベントをするとか考えます。それはよいのですが、まず日常の中で心をオープンにして、いろんな人と出会い、接し、話したり、食事を共にする、そんな出会いの中で、聖霊はすでにお働きくださっているのです。
また、彼らはユダヤ人の会堂において神の言葉を語ったといいます。神を礼拝するその所で一行は主の救いのみ業を日毎に告げ知らせていたのです。現代社会にあって日々追われるように仕事や生活しているわたしたちも、こうして主を礼拝する場にあって週ごとにキリストの救いの御言葉を戴き、主の愛と恵みを確認する。だからこそ霊的な信仰が保たれていくわけで、こうして礼拝の場に集ってゆっくり、じっくりと身をおいて福音の言葉を聞く時は欠かせないのであります。そうして改めて日々の日常の中に生きて働いてくださる主の臨在、くすしきみ業を見せて頂くことができるのです。

聖書に戻りますが、西部の中心地パフォスでバルナバとサウル一行はユダヤ人の魔術師、バルイエスという偽預言者に出会います。これは8節の魔術師エリマと同一人物と見てよいでしょう。彼は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明なキプロスの総督と交際していました。魔術師といえば如何にもまゆつば者、あやしげで得体の知れない者なわけですが。総督ともつき合いがあったように、社会的地位や権力とも結びついていたのです。それは総督の政治や行政、また人々の生活にも影響を及ぼしていたのでしょう。
彼は神の名を巧みにかたりながら、「主のまっすぐな道をゆがめ、人を真の神(信仰)から遠ざけようとしていた」というのです。この魔術師のその力と働き、それは何もこの時代に限ったことではありません。今日の時代にあってもこれと同様な力と働きが社会的な地位や権力、又利権と結びついて、人々の命や生活に影響を及ぼし、まっすぐな道をゆがめ、人を間化するような事態が起こっているといえないでしょうか。政治権力によって教育を統一化していく大阪市教育基本条例は「思想信条の自由」を侵し、人権を蔑ろにする魔術的な力と働きです。日本の学校には在日韓国朝鮮人の子孫たちも共に学んでいます。日本の侵略戦争の旗印と賛歌であった日ノ丸・君が代を、どうして掲げ・賛美することができるでしょうか。日本人としてかつての侵略戦争の歴史をきちんと学んだがゆえに、起立せず、歌わないで、在日の子どもたちの思いに寄り添おうとする教員たちを、どうして懲戒免職することができるのでしょうか。又、政治権力と電力会社の利権とが結びついた原子力行政の闇の部分も然りです。如何にそれが天地創造の神の恵みを損なわせ、人の道を曲げる力と働きであったかということを今さらながら深く考えさせられます。この大阪に住む私自身も原発によって電気を需要してきた者ですが、原発安全神話やこういった国の原発力行政に対して何ら関心もよせず、知ることせず、ぬくぬくと冷暖房を気兼ねなく使用し過ごしてきたことに対し、悔い改めを迫られています。

さて、「総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした」とあります。彼は賢明な人物であったようで、自ら権力や地位は確保しても、その魂の深いところに満たされたもの、幸福感をきっと得ることはなかったのでありましょう。バルイエスも所詮まやかしものでありますから、ほんとうに魂を満たす平安を総督に与えることはなかったのであります。世には占いや呪い、お守りやお祓いなど魔術めいたものがあふれていますが。そんなもので人は真の平安を得る事ができるのでしょうか。それは反って不安を煽り、神の与えたもうまっすぐな道をゆがめて真の平安から人を遠ざけるだけです。
まあそういうことで、総督はバルナバとサウロを招いて神の言葉を聞こうとします。そうなると魔術師エリマも、この二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけるため躍起になります。
すると、「サウロは聖霊に満たされ、『主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう』と魔術師に神の言葉を語る」と、たちまちその通りになったというのです。それはまさにパウロの力ではなく聖霊の力と働きによるものでした。聖霊がお働きになられる時、そこに大きな救いのみ業が起こされます。「総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った」。まやかしの言葉は力を失い、神の栄光が顕わされます。

最後になりますが、祈祷会で「サウロはちょっと厳し過ぎるんじゃないか。目が見えなくなるなんて」というご意見がありました。確かにそれは審きの言葉に聞こえるかもしれません。実はそれを口にするサウロ自身キリストへの迫害をしていた時、同様の言葉を聞き三日間光を失いました。しかし、復活の主はそのサウロを断罪することはなさいませんでした。逆にご自身を示され、悔いる彼の思いを救いの喜びで満たして、福音を伝える使徒に生まれ変わらせたのです。サウロは主の大いなる赦しを、身にひしひしと感じたことでしょう。それはまさに目からうろこの体験であったことでしょう。
サウロが魔術師エルマに、かつての的外れの生き方をしていた自分の姿と重ねたかどうかは分かりません。けれど、糾弾や断罪の裁きの言葉ではなく、「やがて時が来ると見えるようになる」という希望の予告を、聖霊がサウロをして語っておられるということです。つまり、エルマの的外れな生き方が悔い改めと主の救いを受けることで、新しく生まれ変わる時が来ることを願いながら、語られた言葉であるのです。

今日の時代にあっても人の罪をとおして悪魔的な力が働き、神ならざるものを神とするような、主のまっすぐな道をゆがめようとする力が働いています。その力や働きに対して、聖霊の力と働きを求めて、懸命に祈り続けなければなりません。
本日の箇所には3度「聖霊」の働きが記されております。一つは、「聖霊が告げた」。聖霊は単なる働きや機能ではなく、人格を持って働きになられるお方です。二つ目は、「聖霊によって送り出された」。バルナバとサウロの背後には教会の祈りと支えがありました。聖霊は教会の交わりと祈りをとおして働かれるのです。三つ目は、「パウロは聖霊に満たされた」。聖霊は主の福音に生き、その恵みを伝え、分かち合おうとする者を豊かに満たし、お用いになります。今も変わることなく生きておられる主のすばらしい「聖霊の力と働き」を、わたしたちも知り、今日もそれを経験することができるのです。主の福音の豊かな拡がりを、真心込めて、求めてまいりましょう。
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