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自由と解放の賛歌

2012-04-22 16:37:06 | メッセージ
宣教 使徒言行録16章6~34節

① 断念と自由
本日は使徒言行録16章より「賛美による力と解放」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。この箇所はいわゆるパウロの第二回伝道旅行についての記事でありますが。この旅を通してイエスさまの福音が小アジアを越え、ローマのマケドニア地方にまで伝えられることになったということであります。そこへ至る道のりは、不思議な主の導きとしか言いようのないものでした。6節にパウロらはアジア州で御言葉を語る事を、聖霊から禁じられたとあります。それで彼らとしては止む無くフリギア・ガラテヤ地方を通っていきます。ところがその途中のビティニア州に入ろうとしたところ、イエスの霊がそれを許さなかった、というのです。それでまたも止む無くミシア地方を通ってトロアスに行くのでありますが。つまりそれは、パウロが頭に描いていた当初の計画が、全く思う通りに運ばなかったということです。そこには、まあ環境や気候の問題、あるいは健康上の問題もあったかも知れませんが。ともかく「聖霊とイエスの霊によって」、パウロらが最善と思っていた計画が一度ならず二度までも閉ざされてしまうのです。
しかしパウロは辿り着いたトロアスの地で、その夜マケドニア人が立って「マケド二ア州にわたって来て、わたしたちを助けて下さい」と願う幻を見るのであります。それで、すぐにマケドニアに向けて出発するのでありますが。パウロはそこで、実にこのマケドニアで福音を伝えることが、神さまのご計画であると確信するに至るのです。
 
私たちはよかれと思って様々な計画を立て、実行しようとします。ところが、しばしば私たちの計画と神さまの計画が異なることがあるのです。神さまが最善の結果をもたらすために私たち人間の計画した道を閉ざされ、新たな道備えをなさる、ということがあります。道を閉ざされると人間の側は非常に困るわけですが。時を経て振り返った時に、初めて「これは神さまのご計画だったのか」と気づかされる。そういったご経験をみなさまもお持ちなのではないでしょうか。今日のこのパウロでありますが、彼は異邦人伝道に使命観を持ち、この旅を計画しました。ところが、彼の願っていた道は阻まれてしまいます。
彼なら多少の困難や妨害があっても、それを乗り越え遂行する意思の強さを持ち合わせていたでしょう。それを実現するためなら忍耐強く何日でも待ったでしょうし、問題解決のために尽力したことでしょう。彼は自由にそうすることができたのです。
しかし、あえてそうしなかったのは、彼が祈りのうちに常に主の御心を尋ねつつ、行動する人であったからです。その祈りの中で聖霊ご自身が禁じられているようだと思った時に、パウロは自分の計画を放棄し、神のご計画に従う道を選んだのです。それがパウロの自由でした。
普通、自由と言いますと、自分の思いどおりにできるとか、人に左右されないという意味です。が、パウロの自由は、主の思いのまま自分が用いられていくところにありました。そしてそれは、たとえ状況や現状が変わろうが、それに囚われない、又自分の思いや考えによる計画は持っていても、それに囚われない。そういった自由であったということであります。主がなしてくださる事、主が導かれることにどこまでも信頼をし、望みをおいて歩む、それこそが彼の人生の指針でした。

② フィリピでの福音伝道
さて、そのような導きを経てマケドニアのフィリピでは紫布を商う婦人ルデアとその家族が救われるなど、フィリピでの福音伝道は功を奏していきます。
ところが、占いの霊にとりつかれた女奴隷が彼らの後を追っかけてきては、「この人たちはいと高き神の僕でみなさんに、救いの道を宣べ伝えているのです」と叫んでまわり、そういうことを幾日も繰り返すので、さすがにパウロもたまりかね、彼女にとりついている悪霊に命令し、追い出しました。
そうしたところが、この女奴隷を所有していた主人たちは、金もうけの望みがなくなったことを知り、パウロとシラスを捕え、役人に引き渡すために広場に引き立てていってしまうのです。そしてパウロとシラスを、ローマ市民に違法な風習を宣伝している不穏な外国人として訴え、群衆も二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、下役に命じて鞭で何度も打たせ、足かせをはめて一番奥の牢に入れて、看守に厳重に見張らせたというのです。まあ、パウロとシラスにはとんだ災難であります。
牢の中で、二人は足かせをはめられたまま身動きがとれないような状態でした。身体は腫れあがり傷みながら、これから一体どうなるのかと、不安がなかったといえば嘘になるでしょう。けれども、それにもかかわらず彼らはそこで賛美の歌をうたい神に祈っていたというのです。主に従い望みをおく彼らは、真夜中のような状況の中で、牢の一番奥の月の光さえ届かないような現状の中で、なお賛美の歌をうたい、依り頼む神に祈り続けていくのであります。そしてその賛歌は牢の中にいた他の囚人たちにも響き渡りました。囚人たちは彼ら二人の賛美のうたに聞き入っていた、と記されています。
二人は確かに足かせをはめられ身動きが取れず不自由な状態であったわけですが。その魂は実に自由であり、解放されていました。権力も何者も彼らのその自由を奪うことは出来ません。その彼らの賛歌が囚われの身であった囚人たちの魂にしみわたっていきました。霊的な賛美の歌は、実に人々の魂深くにまでしみわたり、慰めと勇気を与え、時に厳粛な響きをもって御神の存在を指し示すのであります。

さて、そのような賛美と祈りの中で、突然を大地震が起って、牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまう、という驚くべきことが起こります。
目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとします。彼は囚人が逃げた責めを自分の命で償おうとしたのです。すると、そこにパウロが現れて「自害してはいけない。わたしたちはみなここにいる」と大声で叫ぶ声を聞くのです。看守は、明りをもって来させて牢の中に飛び込み事実を確かめると、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏しました。パウロとシラス、さらに他の囚人たちまでも、逃亡する者は誰もいなかった。その機会と自由があったにも拘わらず、彼らは逃げ出さなかったのです。逃亡しないという自由を選んだのです。
聖書には、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8章32節)
「主の霊のおられるところに自由がある」(Ⅱコリント3章17節)と記されています。

現代に生きる私たちは、この日本において自由に考え、自由に発言し、行動することができます。しかしほんとうの自由を知る人、その自由に生きる人は、どれくらいいるといえるでしょうか。真理の御霊はほんとうの自由というものを私たちに教え、与えてくださいます。

ところで、この看守はこの出来事をとおして、驚きと共に神への畏れの念を抱いたのではなかったでしょうか。恐らくこの看守も地震の前、パウロやシラスたちが神にささげる賛歌を聞いていたでしょう。でもその時点では、まだその示すところを知るよしもなかったでありましょう。が、こうして地震の後の状況を通して、それは又パウロとシラス、他の囚人たちの態度を通して、「生ける真の神はおられる」と、そういう聖なる畏れ、悔い改めへと招かれるのであります。この獄中からの賛歌を通して、看守は真の自由と解放の人生を知るのであります。
看守はそのパウロとシラスに言います。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。囚人たちは逃亡しなかったのですから、もう彼は責任をとる必要はなかったのです。けれども、自分の魂の救いがほんとうに必要であることに気づくのです。
二人は彼に答えます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。
この「主イエスを信じなさい」の意味するところは、「イエス・キリストをあなたのまことの主人としてお迎えし、あなたの人生をこのお方にゆだねなさい」ということです。真の生ける神、そしてイエス・キリストの救いの福音を、彼はどういう思いで聞いたことでありましょう。又、二人は「あなたの家族も救われます」と言っていますが。その救いの福音は個人に留まるのではなく、その家族にまで、祝福をもたらすものとなったということです。先に登場しました紫布を商う婦人リディアもそうでした。彼女を通して、その家族にも福音が伝えられ、さらにフィリピの人々へと救いのみ業が広がっていきました。キリストの救いの福音は、個人的な出来事ではありますが、その家族や地域の共同体や社会にまで影響を及ぼす力を秘めているのです。

③ 最後に
このフィリピでの宣教において、前半のリディアとその家族に救いがもたらされていく出来事などは、まあパウロとシラスにとっても計画どおり、願い通りのことであったでしょう。しかしそれとは逆に、自分たちの思いもよらない出来事や災難に遭遇するというような事態が生じます。それも同じフィリピでの宣教においてでありました。投獄され監禁状態となった時、まさに伝道はそこで終わったか思えますが、全くそうではなかったのです。彼らは暗い牢にあって、賛美を歌い、神に祈りをささげ続けました。まさに福音はこの真夜中の牢獄の中で光を放ち、御救いが起こされていったのです。「時がよくても悪くても御言葉を伝えなさい」と、聖書のお言葉がありますが。このような困難な中で、イエスさまの福音が力強く証しされ、まったく思いもよらぬ仕方で、看守とその家族が主を信じ、救われていくのです。
 まさにそれは、主の霊の自由なお働きによるものであります。私たちも人間的に苦しくて、しんどい状況におかれる時があります。しかし、なお十字架と復活の主は、そのあなたと共におられるのです。この主に、いかなるときも賛美の歌と祈りをささげる、自由と解放の賛歌を歌いつつ、共に歩みゆく者とされてまいりましょう。
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