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主イエスの復活のメッセージ

2020-04-12 09:12:02 | メッセージ

礼拝宣教 ヨハネ20章1-18節 2020・4/12 イースター

先週の7日、コロナウイルス感染症拡大に伴い緊急事態宣言がこの大阪にも出されましたが。大阪教会としては臨時信徒会で5月10日まで主日礼拝を休会(集まるのを止める)とする苦渋の決断をいたしました。悩ましいことですが、このコロナウイルスの蔓延をくい止めるには「人と人との接触を避ける」ことに尽きるということです。
5月5日に予定されていました関西地方教会連合の定期総会、大阪教会が会場になっていましたが、それも集まらないで議題承認の可否を文書で諮るかたちとなりました。
連合会長からは「このような時こそ連合内のつながりを強め、祈り合い支え合いたいと願います」との連絡がありました。今、私たちは教会に集まることはできなくとも、共に主に向って礼拝を捧げ、互いのために祈り支え合って、信仰の守りを頂いてまいりたいと思います。
さて、本日はイースターです。従来ならば教会堂に集い、多くの方々と共に声高らかに主を賛美し、イースターエッグが配られ、皆で主イエスの復活を祝うのでありますが。ある教会では礼拝を再開した時に、イースター礼拝を改めて行うという話を聞きました。それもいいアイデアかと思いましたが。でも、今日はやはりイースターをおぼえる日でありますので、私たちは教会堂に集まることはできませんが、主イエスの復活をこの日心から讃美し、感謝を捧げる時としたいと思います。

本日はヨハネ福音書20章1-18節より「主イエスの復活のメッセージ」と題し、御言葉を聞いていきます。
マグダラのマリアは、イエスさまが十字架刑で死を遂げられた3日目の早朝、まだ薄暗いうちにイエスさまが葬られた墓に行きました。
最初にイエスさまの墓に行ったのはイエスさまの弟子たちではなく、かつてイエスさまから7つの悪霊を追いだしてもらったこのマグダラのマリアでした。
弟子たちはゲッセマネの園で散り散りになってしまったのです。
このマグダラのマリアは、十字架にかけられたイエスさまの傍らで、イエスさまの苦しみと死を嘆き悲しみました。イエスさまが十字架から降ろされても側を離れず、埋葬の場にも付いて行きました。そしてこの安息日明けの早朝に彼女は、せめてイエスさまの体に香油を塗ってさしあげたいと墓を訪れたのです。
彼女は自分をいやし、神の愛のもとにある新しい人生を与えてくださった、イエスさまの恵みを忘れませんでした。ところがマリアが墓に着くと、石が取りのけてあり、墓にイエスさまの体が見当たりません。
そこで彼女は「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と、シモン・ペトロともう一人の弟子(このヨハネ福音書を記録したヨハネ)のところに走って行き、そう告げます。

そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ向いました。
恐らく彼らも勇気がいったことでしょう。犯罪人として十字架刑にされたイエスの弟子だということがわかると彼らの命もどうなるかわかりません。それでもイエスさまの体がどこかへ消えてしまったと聞いてじっとしていることなど出来なかったのでしょう。
その墓へと二人は走って行くのです。
まあ、そのような緊迫した場面でありますが。「もう一人の弟子の方が、ペトロより先に走って、先に墓に着いた」とありまして、ペトロよりも随分若かったヨハネが先に墓に着いたというのはなるほどです。
そうして先に墓についたヨハネは身をかがめて墓の中をのぞくのですが、墓の中に入ろうとしません。ちょっと怖い気がしたのでしょうかね。
一方のシモン・ペトロは墓に着くと、中に入って、イエスさまの頭を包んでいた覆いが、
横たわっておられたところから離れたところに丸めてあるのを確認しますが、手がかりもありません。やっぱり世間の目も怖かったのでしょう。他に確認するでもなく、結局この二人は家に帰っていきました。彼らのうちにはもはや失望と恐れしかなかったことでしょう。イエスさまが以前から御自分の苦難と死、そして3日目の後のよみがえりについて何度も教えられていながら、それを信じることができなかったのです。

私たちはどうでしょうか。全世界の状況が一変してしまったかのようにも思える毎日です。このような時だからこそ、思い起こすべき主のメッセージがあるということを今日おぼえたいと思います。

さて、ペトロとヨハネの弟子たちが家に帰った後、マグダラのマリアは墓に残りました。
少なくともその時のペトロやヨハネの2人の弟子とは違い、彼女には世間の目を恐れるという思いはなかったのでしょう。
それよりも何よりも一番彼女の心を占めていたのは、「わたしの主が取り去られてしまった、どこに置かれているのか、わたしには分かりません」。この絶望感でした。それはいわばイエスさま不在の人生であります。目の前にイエスさまがおられない。その虚しさ、せつなさ。
愛する人を亡くされてこういう辛い経験をされた方もおられるのではないでしょうか。
疫病で死に目にも会えず、葬儀もできない方々が多くおられると、お聞きしています。その喪失感、その悲しみは如何ばかりでありましょう。ほんとうに一日も早い収束を願うばかりです。

さて、そのようなマグダラのマリアは墓の外で泣きながら立ち尽くしておりましたが。やがて泣きながら、ペトロやもう一人の弟子たちがしたように、イエスさまの遺体の置いてあった墓の中をのぞくと、白い衣を着た二人の天使が座っているのが見えます。マリアはそれが天使だと気づいたかどうかはわかりませんが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません』と言って何か人の気配がしたのでしょうか。後を振り向くと、イエスさまが立っておられるのが見えた。しかし、それがマリアにはイエスさまだとはわからなかった、と記されています。
なぜ彼女は、それ程までに慕い求める主イエスがおられるのに、わからなかったのでしょうか。
ここで重要なのは、マリアは生きておられる主イエスではなく、イエスさまの遺体を捜していたということであります。
そうしますと、「婦人よ、なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのか」と、復活の主イエス自らマリアに語りかけられます。
悲しみ、苦しみに囚われると神が見えません。神が共におられることも分からなくなり、ただ苦しいだけになってしまいます。しかしそれが生身の人間というものでもあります。悲しい時はほんとうに悲しい。苦しいときはほんとうに苦しいのです。マグダラのマリアもそうでした。
はじめ、マリアは復活のイエスさまを目の前にして言葉を交しても、それがイエスさまということがわかりませんでした。先に申しましたように彼女が捜していたのは生ける主イエスではなく、イエスさまの亡骸だったからです。が、その主イエスが「マリア」と呼びかけた瞬間、マリアは「ラボニ」と、答えました。

このラボニとはアラム語で「敬愛の師」いう意味です。
マリアは、その「マリア」というイエスさまのお声を日々日常の中でどんなにか聞いてきたことでしょう。
だからこそその時、それが生けるイエスさまだのお声だということが分かったというのです。
同じヨハネ福音書10章には「羊は羊飼いの声を知っているのでついて行く」とありますが。毎日聖書の御言葉、神の言に親しむことはほんとうに大切です。そうすることで、あ、これは主の御声だ、御心だ。いや、これは主の御声、御心ではない、と聴きわけることができるのです。
マグダラのマリアは、その生きておられる主イエスのお声だとわかった時、どんなに喜んだことでしょうか。
こうして歓喜に溢れたマリアは思わずイエスさまにハグしようとしたのでしょうか、主イエスに近づきます。
ところが、主イエスはそんなマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われます。
せっかくイエスさまだということに気づいたマリアに、何か冷たいようにも思えますが。
でも、主イエスは何も彼女を突き放されたわけでは決してありません。そうではなく、今までのようなラボニ、敬愛する師としての関係性ではなく、メシア、救い主なるイエス・キリストとして、彼女はイエスさまと向き合うことが必要だったからです。
私たちもそうです。聖書は人生のためになると、よく学ぶことは大事です。イエスさまは素晴しい先生です。しかしほんとうに大切なのはメシア、救い主なるイエス・キリストとの決定的な出会いそれこそが最も重要なのです。

主イエスはマリアに言われます。
「まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
そうです。主イエス・キリストは十字架の上ですべての人に救いの道が開かれるという大いなる御業を成し遂げられました。もはやイエスさまの父なる神は、主の救いに与った者すべての父であられ、神であられるのです。
だから、イエスさまはマリアに「弟子たちにこのことを伝えよ」と言わず、「わたしの兄弟たちのところに行って伝えなさい」と言われるのです。

主イエスがマリアに出逢われたのは、マリアだけのためではなく、この喜びの知らせを、「わたしの兄弟」すなわち主の救いによって神の家族となる人たちにも告げ知らせるためでもあったのです。
イエスさまを見捨てて逃げた弟子たちも後悔や自責の念にさいなまれていたのではないでしょうか。けれども復活の主イエスは彼らをわたしの兄弟、と呼んで下さる。十字架までも、墓までもついて行ったマグダラのマリアと同様に、神の家族として招いて下さるのです。
私がどんなに失敗が多くても、弱く、浮き沈みがあるような者であったとしても、神の愛と憐みは私を超えて大きいのです。

18節、「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」。
主は肉の目には見えませんが、生きておられ、信じる者といつも共におられる。
今、私たちは教会堂に集まって礼拝を行うことはできませんが、
このことは寂しくもありますけれども、私たちは確かに生ける復活の主のもとにあって神の家族とされている事を信仰によって確認することができるのです。
十字架の上で御救いを成し遂げられ、復活された主に心から感謝と讃美を捧げましょう。
今日のイースターから始まりましたお一人のあゆみが、主にどうか守られ祝されますように。

祈ります。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」
主なる神さま、今日、主イエス・キリストのご復活をおぼえる主の日を迎えることができ感謝いたします。復活の信仰が与えられていることは何よりも大きな希望です。
今、世界において、この日本にも大きな疫病が猛威を奮う中、教会に集まって礼拝をささげることができません。国の内外でこの疫病によって多くの尊い命が失われています。深い悲しみと嘆きのうちにあるすべての人々のうえに、あなたの御慰めと平安とを与えてください。
主よ、今私たちも日々の生活の中において、又職場においても、この疫病の脅威にさらされています。私たちにできうる感染対策に努めていきます。どうか主よ、これ以上悲しみ嘆く人たちが増えないように、あなたが守り、支えてください。私たちはすべてを創造し御手に治めておられるあなたの力に依り頼みます。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アァメン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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