主日礼拝宣教
テサロニケ一5章12-28節
先週は「主の来臨とその希望」について御言葉から聞きました。今日の箇所はその主の来臨に備えて、キリスト者が如何に信仰をもって生きるか。その具体的なあり方を御言葉から聞いていきたいと思います。
① 「喜び・祈り・感謝」
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい、これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
この御言葉は、聖書の中でもよく親しまれているかと思います。愛唱聖句とされている方も多いかと存じます。
それは、「喜び・祈り・感謝」は、主イエス・キリストを通して与えられた神の救いに生きるキリスト者の行動や働きの原動力となっているからです。
実際の私たちの生活は、順風満帆な時は、喜びや感謝することができるでしょう。
けれども、逆境や苦難の時には、不満や愚痴が心のうちにふつふつと出て来て、感情的な喜びや感謝はなくなっていきます。
この喜びと感謝は、実はその間をつないでいます「祈り」と深く関わっているのです。
どんな状況下でも心のチャンネルを、神の救いである主イエスに意識的に合わせていくことです。
それを忘れてしまうと、喜びや感謝を見出すことができないのです。
ここに「絶えず(主に)祈りなさい」という御言葉の重要性があります。
詩編には、イスラエルの民の喜びと感謝の賛美が多くありますが。旧約の時代に生きた神の民の歩みは、苦難の歴史といって過言でないでしょう。けれどもその苦難の中でなお救いの神を呼び求め祈る時、嘆きは賛美へ変えられます。
神の民のしるしは、苦難の中でなお神が共におられる希望を見出し、その喜びと感謝に生きることにありました。
同様に、主イエスを通して神の救いに与っているキリスト者もまた、絶えず主に祈り続けることを通して、たとえ苦難や逆境の中でも、喜びと感謝が尽きない者、主への賛美の歌が絶えず溢れ出る者へと変えられるのです。
平安に満ちた人生とは、苦難や困難がない人生ではなく、神への信頼からくる喜びと祈りと感謝に満たされた人生であるのです。
ヨハネ福音書に、イエスさまが天に昇られるに際して弟子たちに「祈り」についてさとされたお言葉がございます。
「今までは、あなたがたはわたしの名によって何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(16章24節)
主イエスは私たちの罪の赦しであります。祈りは、その主イエスの御名によって創造主なる神との和解をいただき、「父なる神よ」と、願い求めることができるのです。
イエスさまは「そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」とおっしゃいます。
そのようにその後弟子たちは主イエスの御名によって祈り求め、遂に聖霊はお降りになりました。今も主イエスの御名によって絶えず捧げ続ける祈りのうちに聖霊がお働きになられ、喜びと感謝へと私たちを導いてくださるのです。
ですから、使徒パウロはまず、「霊の火を消してはならない」と記します。
はじめに申しましたように、今日のところは主イエスの来臨に備える信徒としての日々の生き方、そのありようが書かれていますが。その主の来臨に備える信徒の生き方、その姿勢についてイエスさまは、花婿を待つ「10人のおとめ」のたとえ話をなさいました。花嫁の家で開かれる婚礼にいつ花婿がやって来るかわからない。花嫁のおそらく友人であった10人のおとめたちはともし火を灯して花婿を待ちます。そして遂に花婿が訪れようとした時、5人はともし火の油を備えていたので無事に迎え出ることができましたが、他の5人は油を備えていなかったので買いに行っている間に花婿は到着し、婚礼の場から締め出されてしまうのです。備えの油を持っている否かは大違いです。備えの油、それは、日々絶え間ない祈りのうちにお働きくださる聖霊です。その霊の灯は「私と主との救いのしるし、人のものと代用ができない」のです。教会にいるときだけでなく、日常の生活において霊的、信仰的に目覚めておくことの大切さが物語られています。
② 「愛をもっていつも善を行うよう努めなさい」
次に、パウロは「預言を軽んじてはならない」と記しています。
預言とは何でしょうか。それは将来起きることを言い当てるようなことではありません。
神より預かった言葉が預言です。聖書教育ではそれを「共同体を建て上げる言葉の業」と言い表していますが。
コリント一14章1節で、パウロは「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」と記していますように、預言も又、神さまから受けた「愛」によって建て上げられていくための信仰の賜物であるのです。
先の21節には「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」とありますが。
これはパウロがフィリピ1章9節以降で、「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」と言っているように、やはり主を信じて生きる私たちが、「愛によって建て上げられていく」勧めなのです。
この「良いものを大事にしなさい」ということについては、12節~15節に具体的な勧めがなされていますので、もう一度お読みしたいと思います。(朗読)
ここでのキーワードは、「主に結ばれた者として」「愛をもって」すべてを行うということです。
それは、共同体の間、教会の信徒間だけでなく「すべての人にも、いつも善を行うよう努めなさい」と、勧めがなされています。
先週の祈祷会の聖書の学びの時に、新聞のコラム「窓」~机の上「どうぞ」の輪~コピーしたもののお裾分け頂きましたので、ご紹介します。
南小倉教会の牧師さんが、「旧知のパン屋さんの店主からの贈り物として届けられた菓子パンや調理パンが食べきれず、折り畳みのテーブルを教会の玄関先に出して、「ご自由にお持ち帰りください」と張り紙をした。その次の日のお昼には、友人一家が今度は新鮮なタケノコを持ってきてくれたので、テーブルに数本おいた。その夕方には、新鮮な玉ねぎがどっさりとおかれていた。差出人不明のお裾分けに驚き、喜んだ牧師さんは写真入りでフェイスブックに投稿した。「まるで『どうぞのいす』だ」という反応がいくつも寄せられた。有名な絵本のタイトルなのだという。(中略)ちまたではマスクの買い占めが起き、トイレットペーパーの品薄状態が続く。なのに、このテーブルの上ではささやかな品薄が増えたり減ったり。コロナ禍で人間同士は触れ合えなくても、モノを介してつながれる。そう確信した牧師さんは絵本をヒントに「どうぞのつくえ」と名付けて、教会の活動として続けようと提案して呼びかけた。「誰かが助かりそうなものや喜びそうなものを一つか二つ、持ってきてください。そして、欲しいものや要るものがある人は、どうぞ自由にお持ち帰りを」。すると日持ちする食品が続々と寄せられた。手作りマスクや洗剤などの日用品も加わり、折り紙のアマエビも数日後に消えた。「バラバラで小さな善意と感謝の交換が、なんとも人間らしくてうれしくて」というこの牧師さんが、一番幸せなのかもしれない。」(一部割愛)
読んでいて、ほっこりとさせられました。
このコロナ禍の状況において、人は不安や恐れの感情に振りまわされると時に攻撃的になり、心ない差別や排除、暴力へとエスカレートしています。又、マスクやトイレットペーパーの買い占めなども起こりました。その一方で人を思いやる祈り、励まし、行動が日ごとのニュースになりました。
使徒パウロの「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間、教会の信徒間でも、同様に「すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」との奨めの言葉を心に留めてまいりましょう。合言葉は「喜び・祈り・感謝」です。
③ 「祈りの力と神の信実」
さて、この手紙を結ぶにあたり、パウロはテサロニケの信徒たちのために神にとりなし、祈ります。
「どうか、平和の神御自身が、あなた方を全く聖なる者として下さいますように。」
パウロが書いた書簡には「平和の神」という表現を多く見つけることができます。
それは、血気盛んな若かりし頃、クリスチャンに対して流血の迫害をなしたことが、実は神を迫害するおぞましい罪であったことにパウロは気づかされ、この滅ぶほかない自分が救われるには神の御子、主イエス・キリストの十字架の贖いによる以外ないことをさとり、キリストによる罪の赦しに与りました。
それはまさに、神との和解の道、平和、シャロームが与えられキリストにある平和をパウロ自身が経験したからです。
さらにパウロは「平和の神御自身が、また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ちどころのない者としてくださいますように」と祈ります。これは、キリストによって神との和解に与ったクリスチャンが「互いに平和に過ごし、すべての人に対してもいつも善を行うように努める」という、主イエスの来臨に向けた生き方に直結した祈りなのです。
さらに、パウロは24節で「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」とテサロニケの信徒たちを励まし祈っています。
この「お招きになった」は、過去形ではなく、「今も招き続けておられる」と訳す方が適切ですから、私たちも又、その招きに応え続けることが大切です。
又、真実は、原語でピストスとなっていますから、信実や誠実と訳す方が適切ですから、
今も招き続けておられる神は信実なお方ですから、その信実のゆえ確かに主の来臨の完成を果たしてくださる、と確信をもって祈り、励ましているのですね。
どんなにかこのパウロのとりなしの祈りが、テサロニケの信徒たちを力づけたことでしょう。この祈りと確信は私たちにも向けられているのです。
さらに25節では、パウロはテサロニケの信徒たちに「兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください」というのですが。
このように、私たちキリスト者は、一方通行ではなく相互の祈りによってさらに豊かなものとなり、力を増すのです。なぜなら主体は祈りではなく、それを聞いて私たちの間にお働きくださる神にあるからです。
最後に、パウロは締めくくりの言葉として、「すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶しなさい。この手紙はすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。」
主の日の礼拝はまさに、この主にある交わりと御言葉を共に聞く大切な場なのです。
今、コロナ禍で握手さえできず、時間も短くして、ソーシャルディスタンスをとらざるを得ない状況ですが。教会はそもそも、信徒の交わりを通して主にある恵みを分かち合っていくからこそ教会なんですね。
パウロはこのテサロニケの信徒たちに宛てた手紙を、一部の指導者やリーダーだけでなく、すべての信徒たちに「読んで聞かせるように」強く命じました。例外なくすべての人たちに読み聞かせて、信仰の共有、喜び・祈り・感謝を共にしてほしい、とパウロは強く願ったのです。
主の日の礼拝はまさに、この主にある交わりと、パウロが強く命じていますように、御言葉をすべての兄弟姉妹と共に聞く大切な場なのです。それが疎かになってしまうと信仰の土台が揺らぎ、生活のリズムまで崩れてしまいかねません。
確かに、現在安全や感染予防として難しくなっています。けれども、それでも、主にあって「喜び、祈り、感謝」できることが私たちには有り余るほどあります。こうして集まり、主と共に、又皆さんと一緒に礼拝を捧げることができる喜びは何よりも代えがたい恵みであります。
コロナ禍において、2か月間教会に集うことができませんでしたが、礼拝プログラムと週報、宣教原稿をメールやファックス、又、初めての試みでしたが、礼拝の音声も配信することができるようになったことは、今後も教会の礼拝に集いたくとも集うことが困難な方と、恵みを共に分かち合える機会になったように思えます。
本日は神学校週間の最終日です。将来牧師として主の御言葉のご用のために立てられていく神学生と、その信仰と学びの訓練の場である神学校をおぼえて、神にとりなし、祈ってまいりましょう。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」との、お言葉をもって主が再び来られる日に向け一日一日を、主イエスの愛と平和に互いに生かされつつ、私たちも又ここからそれぞれの生活の場へと遣わされてまいりましょう。
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