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信じて祈る

2024-07-07 13:34:57 | メッセージ
主日礼拝宣教     創世記25章19-26節 

先週はコリント第二の手紙12章から御言葉を聞きましたが。この7月から9月末までは旧約聖書の創世記より、ヤコブとエサウの誕生物語、そしてヤコブの物語、さらにその息子ヨセフの物語を軸に御言葉に聞いていきます。
ところで先週は生まれる命に優劣をつける「旧優生保護法」に伴い、かつて国策として行われていた強制不妊処置が憲法違反であるとの最高裁判決が出されました。憲法13条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、 公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とあります。また、14条第1項には「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、 政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあり、文字通りすべての国民の命の尊厳が重要視にされたといえるでしょう。そうした優生思想が今日の日本社会に未だにはびこっていることを、最高裁判決ははっきりと指摘したものです。殊に長い間耐え難い痛みと悲しみを背負わされて来られた多くの方々とご遺族の名誉と尊厳の回復を決するにはあまりにも歳月を要しましたが、その方々のお心がいやされますよう願い祈ります。人の命の重さを計ることなどできません。生まれた赤ちゃんの命を利己のために遺棄するという痛ましい事件が起こり続けています。決して正当化でないでしょう。創造主なる神がすべての命の主であり、生かしておられます。そこにすべての人の存在の意義があります。
本日は25章19-26節が読まれました。この箇所は信仰の父祖アブラハムの子イサクと妻リベカの間にその子エサウとヤコブが誕生する記事ですが。もし血統を受継ぐだけであるなら、何も双子でなくてもよかったわけです。しかし、エサウとヤコブの2人が生まれた。そこに神の御計画があったからです。それは神の御計画でした。                                    
イサクは40歳の時にリベカと結婚するのでありますが、2人にはその後ずっと子供ができませんでした。父アブラハムと母サラにも長年こどもが授からなかったのです。主なる神の呼びかけに応えて行き先も分からないまま旅に出た彼らは、唯、神の力に頼るほかありませんでした。そうして2人に待望の子、イサクが与えられました、その時彼らは100歳近い時でした。
そういう両親のことを知っていたイサクは、妻リベカのことを思いやり、妻のために主に祈り続けました。長い年月の後、リベカは60歳にして子どもをみごもります。
ところが、リベカに悩みが生じます。臨月に近づいて来ると胎内の子はよく動くそうですが。リベカは双子を宿しており、その胎内で双子の子供たちが押し合っていたのです。彼女は「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と言って、「主の御心を尋ねるために出かる」のであります。
このエサウとヤコブの誕生に際しての父イサクと母リベカの役回り、役割は、唯、「信じて祈る」ことでした。二人は唯、主に依り頼む以外なく、そうして実際祈り続けたのです。これが彼らのなした大切な事でした。

詩編55編22節で次のようにうたわれております。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らっていてくださる。」
リベカには「ここに来れば主と一対一で向き合える。」そう思えるような場があったのです。
ここに来れば主は耳を傾けてくださり。御心をお尋ねすることができる。そんな心許せる居場所があったのです。私たちはそうした居場所があるでしょうか。この礼拝も、神さまが用意してくださる場であるとの思いがあるからこそ、こうして時間を聖別して集っておられることでしょう。仕事で疲れが残る中にも、主によって安息を得るため。また、命の源である方に依り頼むため。私たち一人ひとりが救いの感謝とそれぞれの願いをもってここに集ってまいります。
中にはご高齢で、お一人でも電車を乗り継いで、このところまで来られる方々もいらっしゃいますが。主を信じて、主に祈るお一人おひとりのお顔は、呼べばお答えになり、生きてお働きくださる神を仰ぎ見る喜びで満ちておられます。それは唯、主のお力と恵みのほかありません。

さて、リベカは祈りました。どのように祈ったのでしょう。
彼女は「胎内で子供たちが押し合うので、これでは、わたしはどうなるのでしょう」と、「主の御心を尋ねて祈った」のです。彼女は自分のしんどい状況、その心に抱えていた不安と恐れを、「ただ、主よ、助けて下さい」と祈るのではなく、「主の御心を尋ね求めた」のです。これこそが聖書の祈りの本質であります。
それは主を信じていなければ、又主に信頼していなければ、主への信仰によらなければこのように祈ることはできません。リベカは自分の主となられたお方を信じて祈るのです。

多くの人は「祈り」「祈願」を日常でも行っています。自分のための祈り、祈願をするだけでなく、家族、友人知人、社会や世界のために祈り、祈願されている方は世の中にはたくさんおられます。それはまことに尊いことです。けれども、そこには自分の願望、このようにあるべきだ、これがあたりまえだという、言わば自己中心的な押しつけが入り混じってもいます。
しかし聖書の祈りの本質は、「神さまの御心を尋ね求める」ということです。神こそが万物を治め、司っておられる主であることを認めなければなりません。

ところで、聖書には不妊という事情の中で、神さまの選びの器が生まれていくという不思議なエピソードが繰り返し伝えられています。先にも申しましたイサクの母サラの場合がそうでした。その後には、サムエルが誕生する時も、その母ハンナが不妊という事情を抱えていました。新約聖書ではバプテスマのヨハネが生まれる時、母エリサベトの胎は閉ざされる年齢になっていたにも拘わらず、その子が誕生しました。それだけではありません。神の御独り子、救いの主、イエスの誕生は、人の事情や状況があてはまらない、人としては困惑でしかない中で、唯、神の御心により起こった聖霊による出来事でありました。
マリアが天の使いによって受胎告知を告げられた時、当然戸惑いと畏れが生じました。しかしその中で彼女は、「お言葉どおり、この身になりますように」との祈りへと導かれていくのです。
それは今日の箇所で、リベカが主の御心を尋ねるために出かけて祈ったのと同様であります。マリアも、このリベカもまた、「信じて祈る」のです。

私たちにも答えが与えられないような長い祈りの時があります。
聖書教育の「毎日の言葉」ローマ8章25-26節より、綴られた言葉を引用させていただきます。
「まだ見ぬことを忍耐して待ち望む人々のことを、神は言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださいます。わたしたちの不安や恐れをとりなしてくださる神がおられます。様々な不安や恐れの中におられる方々のそばに、主がたえず共にいてくださいますように。」そのとおりです。
そのローマ8章21節―23節には次のように記されています。
「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」
そうです。霊の初穂、すなわちイエス・キリストの救いを受け、その再創造の命の約束受けた私たちも又、被造物と同様、神の子とされること、からだが贖われる日のために、共に産みの苦しみを忍耐しつつ、待ち望んで、この地上の日々を生きているのです。そこには希望があるからです。
不妊のリベカが胎内にエサウとヤコブを宿すということは生物学的な出来事でありますけれども。ここで肝心なのは、その神の選びの器が、人間の力や業によらず、唯天から、神によって、つまり霊的に生まれる、ということであります。

リベカの祈り対して、主の答えがありました。
23節「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」
神のご計画です。
この意味については来週以降の礼拝宣教においてお話させていただきたいと思いますが。そこには兄と弟の運命と役割とでも言いましょうか。しかしそれは、この二人にとどまる事柄ではなく、後に続く歴史、民族史、あらゆる出来事につながっていく神のご計画です。それがリベカの胎内に宿っていたのです。

24節「月が満ちて出産の時が来ると、胎内にまさしく双子がいた。」
そうしてリベカはその双子の子を産むのです。
25-26節「先に出た子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その子はエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた」とあります。
ここには双子の兄弟のそれぞれの特徴が描かれています。ヤコブは兄エサウのかかとをつかんで出て来たと、母の胎内にいた時から兄と押し合い争っていたのです。それはその誕生後の神のご計画を物語っていました。

本日は「信じて祈る」というテーマのもと御言葉に聞いてきました。
今日の箇所にはイサクの祈り、リベカの祈りがありましたが。私たちも又主に祈ることに対して貪欲になり、信じ、期待して祈っていこうではありませんか。
祈ること、執り成しの祈りもそうですが、それは実にエネルギーがいる、労力がいることです。
ある人は「祈りは労働だ」と言います。祈り続けるには忍耐が必要です。けれどももっと重要なことは、主を信じて祈る信仰であります。リベカが「主の御心を尋ねるために出かけた」ように。
私たちは心の底から主に望みをおいて祈っているでしょうか。主は私たちの願望や状況を遥かに超えたあり方でもって、その御心を示して答えくださいます。
「信じて祈る」。私たちの歩みであり続けてまいりましょう。お祈りします。
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