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キリストを身に着け、日々新たにされて

2022-06-19 15:09:34 | メッセージ
礼拝宣教 コロサイ3章5-15節 

本日は先ほど読まれましたコロサイの信徒への手紙3章より、「キリストを身に着け、日々新たにされて」と題し、御言葉に聞いていきます。
パウロはここで、「地上的なもの」、すなわちあらゆる自己中心的な悪、貪欲を捨て去り、上にあるものを(追い)求めなさいと勧めます。この「上にあるもの」とは天や高いところを指すだけではなく、「真に高価で価値あるもの」という意味であります。

それは1-4節で、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」「あなたがたは(キリストと共に)死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」との、この上ない希望のことです。

異教の地に住むコロサイの信徒たちがキリスト者となる以前は、自己中心的な悪、貪欲を追い求めるような罪に滅びるほかないような生き方をしていたのですが、キリストの福音に出会い、神の愛とゆるしに生きる者とされました。しかし中には悪い力や習慣に引き戻され、「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉や互いにうそをつくような事をする人がいたのです。
そのコロサイの信徒たちに対してパウロは、次のように断言します。口語訳聖書でお読みしますが。9節「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである」。
そうではなかったのか、という問いかけでありましょう。

パウロがここで「真の知識」といったのには、理由があります。それは前の2章21節以降で、パウロは「人の作った戒律や規則や教え、あるいは独りよがりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行には知恵あるもののように、価値あるものように見えますが、実は肉の欲望を満足させるだけなのです」と、かなり厳しい事を書いていますが。
「宗教」というものが変質していきますと、本来は人を真に生かすはずの教えや戒めが逆に自分を縛り、人を縛る非寛容で閉鎖的なものになっていきます。さらに、自己の願望や教団、組織の欲求が満たされるようになっていきますと排他的となり、魂の平安と救いが損なわれてしまいます。
キリストはまさにそういったあり方を糺し、本来の神との関係性を築き、神の祝福に生きるようにと、すべての人を解放と救いに招かれたのであります。
しかし、一度キリストの救いに与った者でさえも、先に触れましたような過ちに陥ってしまいかねないということです。
そういう「偽りの知識」からキリストの救いに与った者として、「真の知識」を身にまといなさいと、パウロは呼びかけるのです。
それは具体的に、12節「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」というキリスト者の生き方でありますが。
それは戒めというよりも、古い人として罪と貪欲によって滅ぶほかないような者のために、天の神さまが御子イエス・キリストをこの世界に送ってくださり、憐れみと慈愛、謙遜、柔和、寛容によって、滅びから救い出してくださったのです。私たちはただその天来の恵みに与った者として、それらを身に着ける者となりなさいと、奨めているのです。

何事も自我や利己心からではなく、この神のご慈愛と恵みを日々覚え続けることが、キリストを身に着けさせていただくということにつながるのです。
それは一度だけ身に着ければもう終わりというのではなく、私たちの生の全領域においてキリストを身に着けて生きるように努めることが大事なのです。バプテスマを受けて卒業してしまうクリスチャンも残念ながらおられますが。それで大丈夫なのでしょうか。私たちには大いなる希望があります。それは主と顔と顔を会わせるその日が来るという希望です。その日まで、日毎にキリストにある新しい人としての歩みを続けたいと切に願うものです。

6月8日お昼の祈祷会後、ずっと祈りに覚えておりましたOさんが入院されている療養型の病院に移られることになり、訪問して久方ぶりにお会いすることができました。体調を崩されてご入院されたのがコロナ下の前からでしたから3年以上はお会いできなかったかと思います。
その日は、Sご夫妻もご一緒してくださるということになりました。
Oさんは一時脳梗塞で重篤になられ、集中治療室での治療が長らく続きましたが、Iさんの祈りと看病もあって、神さまのお守りのうちに現在療養型の病院に移られています。御自分で食事を摂ることができなくなったため人工的に栄養を摂取されておられます。
お訪ねした折、Iさんからは「母は私たち家族が行っても目をつぶっているか、寝ていることが多いので、せっかく来てくださったのに、先生やSご夫妻が行かれも、目をつぶったままの状態かも知れません」と、入室前にご説明を受けました。
面会時間は15分。入室には原則2名までということで、先にIさんと私が入室しました。確かに「こんにちはOさん」とお声をおかけしましたが、寝ておられたご様子でした。まず、詩編23編の「主は私の羊飼い」をゆっくりとOさんのお耳もとで読み、その後「お祈りをしますね」と伝え、お会いすることができたことを感謝し、いつもOさんと共におられる命の神さまに賛美と感謝をおささげしました。そうして私がもう一度「Oさん、今日はお会いできて本当にうれしかったです」と言いますと。ゆっくりと目を開けて「下川先生、どうもありがとうございました」と、はっきりしたお話しくださったのです。
傍にいらしたIさんが、そのお母様のご様子に大変驚かれ「母が、こんなにもはっきりと下川先生と言うなんて、、、家族にもそこまで答えて話すなんてことはありませんでした」と、おっしゃったんですね。私も神さまがOさんのうちに確かに生きておられるということを目の当たりにし、ただ驚きでした。
その後には、Sご夫妻が入室されたのですが、うれしいやり取りがあったそうです。Sさんが「Oさんまた来ますね」と話しかけられると、Oさんが「まあ、お忙しいのに」と気遣いの言葉を返してこられたそうです。Sさんは「普段から相手の人を思いやるOさんの言葉だ」とおっしゃっていましたが。その通りだと思います。教会に通われていた折にも、いつもお一人おひとりに丁寧な心遣いをなさっておられたOさんの人となりそれがなんら変っておられないのです。それはきっと90歳を過ぎてもなお神さまを慕って毎週遠方から電車に乗って礼拝に通い続け、祈りと御言葉の日々を送り続けて来られたからこそ、床に臥し眠ることが多くなった今も、主にある平安とその生き方までも証しでいらっしゃるのだと思います。
97歳のOさん、ご面会くださったSご夫妻も90歳以上と、こういうかたちで主にあるお交わりの場が与えられたこと、本当に私には忘れられない日となりました。
聖書の中にある次のような御言葉がございます。
「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(Ⅱコリント4:16節)

本日の聖書でパウロはこう言います。「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」。
この愛はアガペーの愛。神の愛を表す言葉です。人の愛は気まぐれです。思いのまま愛したり愛さなかったりします。だからこそ神の愛を上から着るように身に着けるのです。それはキリスト御自身の愛であるといっても過言でないでしょう。私たちはキリストによってこの神の愛を身に着けることができるのです。
キリストが私に何をして下さったか。十字架にかかり、身代わりになり、忍耐強く、育み、導き、救いに入る日まで共においで下さるその愛。キリスト。その愛を私たちはこの身に着けるのです。
14節ですが、口語訳聖書には「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である」と訳されています。
私などはこの訳の方が馴染み深いのですが。確かに着物を身に着ける時、帯がなければ着物を着たことになりません。帯がなければ着物はほどけてしまいます。そこには日毎にキリストを着て、その愛の帯を締めるという信仰の生活のあり方が大切であるかと思います。
ただ、今回読んだ新共同訳聖書は帯ではなく「きずな」と訳しています。
そこには「愛」というものが単に個人的なものではなく、神と人、人と人とをつないでいく「きずな」であることが示されています。それは自己完結しない、拡がりをもった愛なのです。
「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」。
神の愛、アガペーの愛は個人にとどまらず、様々な人との関係をつなぎ、和解と平和の完成へと向かわせる力があります。聖書はその愛を身に着けるように、私たちを招いているのです。

最後に、今週の6月23日は週報にも記しましたように「沖縄命(ぬち)どぅ宝の日」を覚える日であります。
沖縄に於ける日本軍の組織的な戦闘が終結した日から77年目を迎えます。沖縄戦で亡くなった20万人の方がたを覚え、二度と過ちを繰り返すことがないよう不戦の祈りを捧げます。
今もこの時、ウクライナとロシアの間で戦争が起こっています。一方的に仕掛けられた戦争に思えますが、ウクライナの人たちだけでなく、ロシアの人たちも戦争の犠牲者なのです。武器を製造する人たちも、武器を売り、戦地に送る人たちも、戦争に加担することにおいて戦争の加害者にも被害者にもなるのです。日本の国土において殆どの米軍基地がある沖縄は、有事の事態になると真っ先に戦争の拠点となるのです。先日、ルワンダのジェノサイド後に和解といやしのお働きをなさっておられる国際ミッションボランティアの佐々木和之さんから現地の報告を聞く機会がありました。ルワンダでもその周辺諸国との緊張関係の中で、武力に頼らない「平和構築」と「安全保障」を訴える声が、紛争の絶えないその地にあって少数者であり、実現に様々な困難が伴うということでした。
旧約聖書のミカ書に次のような御言葉がある。
「主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向って剣を上げず。もはや戦うことを学ばない。」

今日の15節にも、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」と書き記されています。
神の愛こそ、すべてを完成させる全世界のきずな、となり得ることを信じ、キリストの平和を掲げ、祈り努めてまいりましょう。
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