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神の愛とキリストの忍耐に倣って

2020-07-26 13:44:02 | メッセージ

主日礼拝 テサロニケ二3章 

                                           

2か月間このテサロニケの信徒への手紙を読んできましたが、今日の箇所がその最終章となります。本日は「神の愛とキリストの忍耐に倣って」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

 

①「祈りの要請」

ここでまずパウロはテサロニケの信徒たちに対して、「わたしたちのために祈ってください」と、祈りの要請をいたします。

それは、「主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」という目的のため、主の御心が実現されていくためでした。

パウロはこの手紙をコリントに滞在中に書いたといわれていますが。そこでは、主の御言葉を宣べ伝えることの困難にぶちあたっていたようであります。

テサロニケでパウロらが主の福音を宣べ伝えたのはわずか3週間でした。しかし、そこではパウロが絶賛するほどの信仰の実りがもたらされました。

異教的な風土や偶像に満ちた町において伝道の困難がありましたし、又、ユダヤ主義者ら反対勢力の妨害にも遭ったのですが、テサロニケでは主イエスの福音を信じて救われる人たちが起こされ、しかも「彼らの信仰は困難の中でも愛と忍耐をもって証明されていった」のです。

ですから、パウロはそのようなテサロニケの信徒たちに、コリントにおいても福音宣教が守られ、神の救いに与る人たちが起こされて、主の御名があがめられるよう祈ってください、と要請したのです。

主の救い、福音に与ったクリスチャンは、さらに福音が広められ、主の御救いに与る人が起こされて主の御名があがめられるように、祈り、努めていくように招かれています。そこに私たちが先に主に召し出された意義がございます。

 

今日のこのパウロの祈りの要請には、「わたしたち(シルワノやテモテ)が道に外れた悪人どもから逃れられるようにと、祈ってください」とも記されています。

悪人とは神の御心に敵対する者であり、神の救いの福音を伝える人々に激しい妨害や迫害を加えていたのです。

だから、福音の前進のために、伝道者たちがこのような悪い者から守られるように、祈ってほしいと強く訴えたのです。

大使徒であったパウロが、自らの課題や困難をあえてさらして、「私たちのために祈って下さい」とテサロニケの信徒たちに訴えることができたのは、そこに主にあって共に結ばれているという信頼関係があったからでしょう。

牧師として、教会の信徒の方から祈ってくださいというリクエストを受けて主に執り成し祈ることはあっても、「わたしのために祈ってください」と訴えることはほとんどしてこなかったなあ、私のために祈ってくださいなんていうことに何か遠慮があったなあ、と振り返って思いました。

けれどもそれは、私自身のためというより、主の御業と栄光が顕されるために必要なことであるんですね。

 

②「祈られる側から祈る側へ」

さて、自分たちのために祈ってほしいと頼んだパウロでしたが、今度は手紙の結びで、テサロニケの信徒たちのために心から神に執りなし、祈ります。

パウロは自身が悪い者の妨害によって苦しめられている中で、テサロニケの信徒たちが異教的な勢力、又様々な試みる勢力による信仰の闘いの状況下におかれていることに思いを馳せ、励まし祈るのです。自分のことよりもテサロニケの信徒の事が心配なのです。

3節「しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。」

パウロにはその強い確信がありました。

この「主は真実な方」の真実とは、第一テサロニケ5章にも記されていますものと同様、原語はピストス、「真に信頼に値する」という意味で、それは人の真実や誠実ではない、神さまの確固とした真実を表します。神さまは人や世界は変わろうとも変わることなく、真実(信実)なお方です。

私たちも又、主を信じて従う者を主は必ず強め、悪い者から守ってくださる。その主に信頼していくところに信仰の力がゆたかに働きます。

 

次の4節でパウロは、「わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています」と述べます。

「わたしたちが命ずること」とは、第一テサロニケ4章にありますように、「聖なる生活に励む」「互いに愛し合うように」「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」ということです。テサロニケの信徒たちの多くはその教えを実践していたのです。

すでにその報告を受けていたパウロは、テサロニケの信徒たちがこれらのことに今後も励み、信仰の道を進み続けていくであろうと確信したのですね。

 

③「神の愛とキリストの忍耐」

そしてその信仰の生活が日々保たれるようにと、パウロはこう祈ります。

「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。」

このパウロの祈りの言葉から、今日の宣教題を「神の愛とキリストの忍耐に倣って」とつけさせていただきましたが。

私たちの信仰生活にも様々な問題や出来事が起こってきます。そんな時、信仰が守られるために最も大切な事。それが、「神の愛とキリストの忍耐」のもとにあって、私たちがこの主に連ならせていただく、ということであります。

 

さて、先週の2章で「主の日が既に来てしまったかのように言う者」の影響を受けて動揺する信徒たちがいたということをお話しましたが。

その事に関して、テサロニケの信徒たちの一部に、6節「怠惰な生活をして、わたしから受けた教えに従わないでいる兄弟」や11節「怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者」がいたということです。

パウロは主の来臨と、そのときが迫っていることは述べていますが、未だそのことは起こっておらず、来るべき世の終わり、主の来臨に備えて如何に生きるかについて述べてきたのです。

ところが、パウロの教えの言葉を曲解し、主の日はすでに来た、主はすでに来臨されたとう誤った宣伝をする人たちが現れ、惑わされる信徒たちも出てきたのです。

 

ところで当時、ギリシャやローマ世界の人たちにとって、労働は奴隷のすることだとみなされていました。クリスチャンとなってもそういった社会風土がしみついている信徒たちの中から、「主の日はすでに来ている。もはや労働や仕事から我々は解放され自由だ。労働は奴隷に任せて思いのまま生きよう」という人たちが現れてきたのですね。それが教会の中で悪いパン種のように広がっていったのであります。

パウロはそういった無責任で主の教えを曲げるような人たちに向けて、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じたのであります。

働くといっても、それぞれ違います。家事労働の人もいれば、教会での奉仕や働きもあります。祈りも労働だという話も祈祷会のときに出ましたが。まあいろいろな働きがありますが。ここでの問題は、主の日はもう来た、世の終わりが来たといって、日常の生活や社会活動、仕事も家庭も投げ出している人たちのことです。

このことに対して、パウロは「わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けた。そのように身をもって模範を示した」と述べます。そうして、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じてきたとも述べます。

実際、パウロは使徒職でありましたが、彼自身は天幕作りの仕事をしながら生計を立て、

伝道をしていました。

 

先日、恵泉バプテスト教会のHPのQ&Aで、「イギリスから生まれたバプテスト教会の初期の伝道者たち」について解説されているところに目が留まりました。

「バプテストの指導者たちは手工業の職人や小売商人で、毛皮職人、ボタン製造工、仕立て屋、靴下製造工などの信徒たちでした。バプテストの指導者が世俗の職業に従事する信徒であったことには、二つの理由が考えられます。一つは、教会が小さく貧しく、教会の働きに専任する牧師を招くことができなかった事。もう一つは、「聖職者と呼ばれる人たちはギリシャ語やラテン語の知識によって聖書を解釈しているにすぎず、神の救いにとって一番大切な『聖霊』をないがしろにしている」と主張していた事です。彼らは、他教派の人々からは「職人説教師」とか桶を講壇代わりにしていたので「桶説教師」と呼ばれ軽蔑されていましたが、その一人、サミュエル・ハウは、「聖霊の教えをもっているなら、無学なものこそ牧師にふさわしいし、救われるのだ」と言っています。
 最初の頃のバプテスト説教者の一人、サミュエル・ハウが説教した場所は、居酒屋でした。当時の版画をご覧になれば一目瞭然ですが、ハウは桶(ビヤ樽)を講壇代わりにしています。当時居酒屋は、ビールの販売以外に、食べ物、取引場所、宿泊施設を提供し、旅行者や移住者はもちろん、庶民にとって職の斡旋や融資など、情報交換や生活の拠点でした。もちろん教会での礼拝も大切に守られていましたが、居酒屋で説教するという姿には、初期のバプテストの人たちの、どんなところでもイエスの福音を伝えたいとの熱い思いを伺うことができます。」(恵泉バプテスト教会HP Q&Aから引用)

初期のバプテスト教会の指導者たちは信徒伝道者として仕事をもって生計を立てながら、日常を生きる人たちに御言葉を宣べ伝えることに熱い思いをもって日々尽力を注いでいたということです。

今もバプテスト連盟の教会の中で、教会が事業体をもっていたり、牧師自ら副業をもっていたりというところもあります。もちろん牧師に専念することもよいことですが。いろいろな事情がございますが、大切なことは私たちが生きる全領域で、主の御言葉と福音が語られ、証しされていくことです。

 

④「たゆまず善いことをしなさい」

聖書に戻りますが。

パウロはそのうえでテサロニケの信徒たちに向けて次のように命じます。

13節「兄弟たち、あなたがたはたゆまず善いことをしなさい。」

それは、主の日がいつ訪れてもいいように備えた生き方です。それは又、その日その日を主の教えと言葉に忠実に従いゆく生き方です。

パウロはガラテヤの信徒への手紙6章7-10節で次のように記しています。

「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」

「今、時のある間に」。4月、5月は私も皆さんも初めての経験であったかと思いますが。教会の門が閉ざされて、思うように礼拝やさまざまな働きができなくなるということを痛感しました。しかし、いつその日が訪れるかわからない。わからないからこそ、この今、たゆまず善いことに励んでいくことが大切なのです。

この善いとは、元々は神さまが天地創造をすべてなされた後に、「すべて善い」と絶賛なさったその善いという意味なのです。それは私たちが神さまに造られた者として、神さまの作品として、神さまが喜ばれる生き方を行うということなのです。

 

14節「もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。」

ここには、主の福音の真理に反する者に対する毅然とした態度と、同じ主にある者としての兄弟愛、すなわちキリストの愛による忍耐が示されています。

敵と見なして関係性に見切りをつけたり、排除したり切り捨てることによって問題を解消しようとすることは、世の中でしばしば見られます。しかしそのようなあり方は教会でなすべきことではなく、同じ主にある兄弟姉妹として、忍耐強く関り、対話し、戒めていくことが大切だと言うのです。

 

5節でパウロが、「神の愛とキリストの忍耐を深く悟らせてくださるように」と主に祈っているように、人の思いではなかなかそうはいきませんから、神の愛と、主イエスが罪に向かう私たちを救うために表してくださった十字架という主の忍耐を仰ぎ見つつ、その信仰の力を神さまから頂いていく必要があるのです。

私たちの主にある教会も、いつもそこに、共に立たされてまいりたいと願います。

 

最後にパウロは「どうか、平和の主御自身が、いつもいかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられますように」と、祝福の祈りをもってこの手紙をしめくくります。

私たちもまた、主の福音、御救いに与る者として「神の愛とキリストの忍耐」に倣いつつ、互いに祝福の祈りをもって、神の平和のうちに建て上げられる日々をともに過ごしてまいりましょう。

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