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信仰の闘いと証し

2020-07-12 13:39:30 | メッセージ

主日礼拝宣教 テサロニケ二1・1-12

                                        

本日はテサロニケ二1章から「信仰の闘いと証し」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

このテサロニケ第二の手紙は先週の第一の手紙と同じように、「終末における主の来臨」に対してクリスチャンは如何に生きるか、という事を説いています。

 

「3つの感謝」

今日の所で、パウロはまず、心から神に感謝を捧げます。

それは、テサロニケの信徒たちの「信仰が大いに成長していた」からです。このことにパウロは主に感謝しました。

信仰は成長するものなのか、とお思いになる方もおられるかもしれませんが。信じて救われたら、もうそれで信仰じゃないか、と。確かに信仰の始まりです。けれども信仰は生涯を通して継続し、深められ、豊かにされてくのです。

パウロは彼らの信仰の成長を、「お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたの間で豊かになっている」ということの中に見出すことが出来ましたと、主に感謝し、しかもそれは「ありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰をもって示されていた」と、主にさらに感謝し、テサロニケの信徒たちを絶賛するのです。

 

まあ、このコロナ禍において、不安や恐れから排他的になり、以前にも増して差別や排除が起こっています。感染者への差別、又大変な思いをして働いて下さる医療従事者とその家族までも心ない差別があるのは残念なことです。お隣の国でもカルトの教団から感染者が拡がったこともあってか、キリスト教会に対するバッシングやネット上での誹謗中傷が増加しているそうです。

テサロニケの信徒たちはまさに迫害と患難の中、主イエス・キリストの救いの確信に立ち、主の来臨と主の正しい審(さば)きを待ち望んでいました。そうして、互いに主にある愛をもって祈り、励まし合い続けたのです。しかも困難の中、他の小アジアの諸教会までも祈りに覚え、支援していたのです。

これら彼らの信仰の行いを知ったパウロは、「あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示している」ことを諸教会の間で誇りに思うと絶賛します。

テサロニケの信徒たちは迫害と苦難の中で、信仰を放棄することもできたわけです。そうすれば信仰の闘いなど生じることはなかったでしょう。けれども、彼らはその信仰の闘いを、愛と忍耐をもって闘い続けたのです。それはまさに、彼らの神への信仰を証しするものとなりました。

イエスさまは信仰について「種まきのたとえ」をなさいました。岩地に落ちた種はすぐに枯れてしまいます。「御言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れるが。しかし、自分のうちに根がないため、御言葉のために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」(マタイ13章20-21節)と、語られました。

クリスチャンの中にも、福音を聞いてはじめは喜んで受け入れるが、何か困難や不快と思えることに出会うとすぐにつまずいてしまう人は多いのです。

日本のクリスチャンを評して、ある人が、1年目は熱心に働き、2年目には悩み、3年経つといなくなると言ったそうですが。

このテサロニケの信徒たちの信仰はそのようなものではなかったのです。彼らは困難に対して、忍耐をもって信仰を堅持したのです。それはまさに使徒パウロがローマ5章で、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを、わたしたちは知っているのです」と、記している信仰です。自分の都合の良い時だけの薄っぺらな考えに終わるか否か。私たちのうちに信仰の闘いが証しとなっていくかどうか。

ヘブライ書に「主は愛する者を鍛え、訓練される」とありますように、主はその私たちの信仰を試し、訓練することを通してその信仰が成長していくことを願っておられます。

 

「神の国にふさわしい者」

パウロがフィリピの信徒たちに向けてこう記しました。「あなたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」また、イエスさまご自身も「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)と言われました。

キリストを信じる者には悩みや苦しみがないのではなく、大事なのはキリストの救いに与って信仰の闘いを忍耐強く歩み通していくことです。そこに主の勝利に与っていくことができるのです。

そのようにテサロニケの信徒たちは、「ありとあらゆる迫害と苦難の中で、その忍耐と信仰を示してきた」のです。これは「あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しかったことの証拠です」とパウロは言い、それだから「あなたがたも、神の国のための苦しみを受けているのです」と、パウロは確信をもって述べます。

私たちも信仰の闘いを通して、さらに祈り、聖書に聞き従う信仰の道を歩み続けていきましょう。

 

「主の報い」

さて、パウロは「テサロニケの信徒たちを苦しめている者には、苦しみをもって報い、

また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださる」と述べます。

この「休息」とは神の国に入ることであり、主と共にいることです。「安息」ですね。安息日には、天地創造の神がすべての活動を終えて休まれたように、人もすべての活動や仕事を一度ストップして神との交わりの時間を聖別しもつのでありますが。それは私たちにとって、主イエスが復活された日、週の初めのこの日曜日を主の日として記念し、礼拝を捧げます。ここにキリストにある真の安息がございます。

また、主イエスは「安息日の主」として、日々共におられるお方であります。その一日一日の主との歩みの継続の集大成が、世の終わり、主の来臨に際して訪れる安息、究極の「休息」であるのですね。

 

7節「主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られる時、神はこの報いを実現なさいます」。

テサロニケ第一の手紙にありましたように、主は、ギリシャ語で:ピストスなるお方、私たちに対していつまでも誠実で信頼に価するお方なのです。

主が完成なさる「休息」の日を待ち望み、主に信頼しつつ歩み通していきたいと願います。

さらに、ここでパウロは「神を認めない者」又「主イエスの福音に聞き従わない者」への主の報いについてこう述べます。

「主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう」。

旧約聖書で、燃え盛る火は神の顕現を表します。又、火は悪を滅ぼし清める裁きを示します。先に申しましたように私たちの安息はとこしえまでも主と共にあることです。

それと反対に、「主の面前から退けられる」ことこそ、永遠の破滅という最も恐ろしい刑罰であるのです。

この神を認めない者、福音に聞き従わない者とは、主イエスを罪の赦しを得させる神の救い、キリスト(救世主・メシア)と認めない者。又、神の愛と義を否定し、自己中心に生きる人すべてに向けられているのです。

聖書で人間が「罪人」であると書かれているのが気に入らない。そのように自分は言われる筋合いはないと考える方も多くおられるでしょう。しかしその罪の定義がそもそも違うのです。まあ一般的に「罪」を殺人や盗みという犯罪などと考えるかと思います。しかしそれは刑法上の罪でありまして、聖書のいう罪は、創造主であり、いのちの源で義と愛なる神さまを無視し、否定して神との関係をもたない状態、これを聖書は「罪」と言っているのです。そもそもの神との関係が断たれてしまうこと以上の不幸なことはありません。

神さまは、その罪人である人間が神と和解して救われるために御子イエスをキリストなる救い主としてお遣わし下さったのです。主の十字架の御業によって真の神との関係回復がなされることこそが「救い」であり、それこそがよき訪れ、福音なのです。

 

「人生の目的」

最後に今日の宣教題を「信仰の闘いと証し」という題をつけましたが、この個所は天地万物の創造主が、神の作品として造られた人間の、最も幸いな「人生の目的」について説いていると言っても過言ではなでしょう。

10節「かの日、主が来られるとき、主はご自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです」、さらに12節「それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があがめられ、あなたがたも主によって誉を受けるようになるためです」。

それは主イエスによって救われた私たちには「神の栄光を現すという人生の目的がある」ということであります。

自分は何のために生まれてきたのかわからないまま、当座を生きているという方も多いのではないでしょうか。

その答えは実に、わたしをお造り下さった創造主なる神さまがすべてをご存じです。

罪に滅びるほかない私たちを主は救われ、神さまとの和解と恵みのもと「新しい目的ある人生」が始まりました。

それは5節で読んだように、「神の国にふさわしい者とされる」人生です。

 

あの塩狩峠、道ありき、氷点など多くの作品をお書きになられたクリスチャン作家の三浦綾子さんは、第二次大戦中、軍国教育のもとで熱心な小学校の教師でした。当時三浦さんはお国のために生き、死ぬことこそが本望であるという強い目的意識を持っておられたのです。

しかし日本が敗戦し、焼け野原を目の当たりにして、今まで教え込まれ、又子供たちに教えてきたことが大きな間違いであったことを知らされた時、生きる目標を失ってしまいます。そしてその後、長い闘病生活を送ることになるのです。

その闘病中、幼馴染を通して主イエス・キリストと出会い、主の救いに与り、真の「人生の目的」、神と神の国の栄光を現す喜びを見出されたのです。三浦綾子さんが生涯をかけて世に出された数々の小説や証集はまさに、その珠玉と言えます。

生きる目的をどこにもつかということは非常に大事なことであります。

確かに仕事に生き甲斐をもつ。より良い家庭を築くことに生き甲斐をもつ。人それぞれの目標はあるでしょう。これらは目先の目的であって、「人生の目的」ではありません。

生涯もつべき「人生の目的」は、たとえ年をとろうが、仕事がなくなろうが、病になろうとも、変わることのないもの。いわば「存在の意義」ともいえるものです。

神の救いに与り、再び新しく創造された私たちが、神の作品として「神の栄光を現す人生を生きる」、そこに今日の聖書も示す「人生の目的」があります。

11-12節「どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉を受けるようになるためです」。

 

主の福音に与っている私たちの歩みを、本日の御言葉から再点検して新たに歩み出してまいりましょう。

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