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あなたたちの力の源

2012-10-28 11:55:27 | メッセージ
宣教 ネヘミヤ記7章72節後半~8章12節 


①「主に立ち帰っていくことから」
本日はネヘミヤ記8章のところから「あなたたちの力の源」と題し、御言葉を聞いていきます。先週の5章のところでは、城門と城壁の修復の最中に起こった凶作と飢饉をきっかけに、ユダの人々が抱える問題が明るみに出されました。それは外敵からのものでなく、貴族や役人が貧しい人々を搾取し、奴隷にしていたというユダ内部からのものでありました。ネヘミヤは「わたしたちは異邦人に売られていた同胞のユダの人々を、できる限り買い戻した。それなのに、あなたたちはその同胞を売ろうというのか。彼らはわたしたち自身に売られることになるのに。」と厳しく指摘しましたが。貧しさを強いられ、あえいでいるユダの同胞もまた、神の宝の民であり、この貧しい人たちが再び売られて奴隷の身になることは断じてあってはならない、というネヘミヤの思いからでありました。それは彼らに「神を畏れ、ゆるされて生きる」ことの恵みを思い起こさせ、その恵みに応えて生きる人生への方向転換を促したのです。

②「一人のひとのようになった」
さて、先程8章のところが読まれました。その冒頭で、「民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。」とあります。この時点で城壁の再建は終わり完成していたようですが。ユダの人々は「水の門の前にある広場」にぞくぞくと集ってきたのです。いわば青空礼拝とでもいいますか。そこに集って「一人の人のようになった」というのです。
この「一人の人のようになった」という言葉と似た言い方として、私たちは「心を一つにして」ということをよく口に致しますが。しかし、往々にしてそれは何か自分たちの思いや考えによって、一つの方向に突き進もうとするような働きかけであります。人間的な思いや考えで一つになろうとするとき、それと違う考えや思いを持つものに対して同化を強要したり、見下したり。排除していくことが往々にして起こってくるものです。力のある側が自分たちと同じようになるように強要し、又同じでないものを見下したり、排除していくといった事が起こってくるものです。人間はこういうところから戦いや分裂を起こし、それを繰り返していますが、それは古今東西の歴史が示すとおりです。昨日は連合の社会委員会の人権デ-の集いとして大正区(25パーセントが沖縄にルーツのある方がたがお住まい)のフィールドワークとお話を沖縄生まれで、旧港区で育った金城馨さんから伺いました。琉球王国が日本の支配下に組み込まれていって以来、沖縄に対して来た同化政策や分断政策、又差別や偏見について改めて学ぶ機会となりました。それは今も日米同盟のもと米軍基地を押し付け、危険なオスプレーの配備、その地位協定の米軍による暴力事件が後を絶たず。沖縄に重荷と犠牲を強いている構造は何ら変わっていません。しかしこの大正区において沖縄と大正区の方たちとの草の根レベルの交流や区民のイベントが毎年もたれ、お互いの違いを知り、認め合って共有し、共生していく一助になっているということでありました。

話を戻しますが。では、ここで聖書が「一人の人のようになった」というのは、どうなのでしょうか?注目すべきは、ここに「民」と一口に書かれてありますが。これは単なる群衆ではなく、主体的な意志をもった集団のことなのです。私たちはここで今礼拝を捧げておりますが、それは単なる群衆ではないですよね。礼拝のため、御言葉を聞くために意志をもって自ら集まった会衆であります。
すなわち、ここで彼ら自身がモーセの律法の書を持って来るように求めた、とありますように、民は「それを聞く」目的で集まった会衆であったのです。
ユダの再建として城壁の修復がなされたものの、会衆の一人ひとりは未だ生活に事欠き、敵の脅威をおぼえ、様々な問題を抱えていました。彼らは城壁にも優る堅固な砦を必要としていたのです。誰もが「モーセの律法」、すなわち神の救いの契約、そして命を得させる御言葉を必要としていました。そういう思いを一つにしていたというのが、「一人の人のようになった」ということであるのです。それは神の民として生きる彼らの本質的再建のための集会となりました。

③「礼拝のゆたかな要素」
さて、今日のこの箇所には、まずユダヤ人たちがシナゴグで守っていた礼拝の原型を見る事ができます。それは、新約の時代に時至りますキリスト教会においても継承されているもので、さらに私たちが週ごとに捧げる礼拝の中にもその要素を見る事ができます。
まず書記官であり祭司であったエズラが、民の要請によりモーセの律法の書を持って来た後、用意された木の壇の上に立って、それを読みあげた、とあります。
これは私たちの礼拝でいうところの「聖書朗読」であり、礼拝の中心であります。これが何と夜明けから正午迄、だいたい7時間程かかったというのですから、読む側のエズラはさぞや大変だったでしょうね。しかし、その律法の書を聞く会衆(律法の書を理解することのできる年齢に達したすべての男女)もまた、エズラによって律法の書が開かれると、立ちあがったとありますので、その朗読の最中はずっと立って律法の書を聞いていたということなのでしょう。聞く側の会衆もすごい、と思いますよね。朗読の後、「エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、『アーメン、アーメン』と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。」これは礼拝の私たちの「讃美」「感謝」「頌栄」「祝祷」といった要素であるといえます。
また、7節にはエズラが読んだ律法の書を13人のレビ人たちが翻訳し、意味を明らかにしたとあります。ユダの人々の中には原語であるヘブル語を話す者もいましたが、ペルシャ帝国の影響にあったアラム語を話す者がどうも多くいたようです。それぞれの生れた環境や受けた分化も違っていましたのです。その点でも翻訳をし、その意味を解説していくという作業が必要だったのです。その奉仕がヘブル語とアラム語のできたレビ人によってなされたというのでありますね。
先週、ニュージランドに在住されている日本の姉妹(求道者)が私どもの礼拝に来られました。英語圏で聖書の言葉に初めて触れ、興味を持たれるようになったということですが。こちらの礼拝に出られて翻訳された日本語で聖書を読むと、同じ個所でも随分そのニュアンスや響き方が異なると、おっしゃっていました。そうですよね。一つの同じ聖書の言葉でも、日本とニュージランドとでは文化圏が異なりますので、その翻訳のされ方も違っていたり、その響きが異なって伝わってくることもあるわけです。大阪弁や東北の気仙訳の聖書もあるほどですから。それもユニークではありますけれども。
まあユダヤ人とは文化も時代も異なる私たちが、聖書の理解を深め受け取っていくためには、聖書の解き明かしの奉仕者やメッセンジャーを通して、聞き学んでいくことが必要なわけであります。

④「あなたたちの力の源」
さて、ユダの会衆はレビ人たちが神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読みあげたので、その朗読を理解した、とあります。そして彼らは皆、律法の言葉を聞いて泣いていた、というのです。それは神の律法にユダの民のこれまでの道のり、神への背信と国家の崩壊、捕囚からそこに至るまでのあゆみが、神の言葉に照らし出され、その罪を思い知り、嘆いたり、泣いたりしたのでしょう。
もちろんそれは神さまのもとに立ち帰っていく順路ではありますが。ただ嘆き、悲しんで終っていては何にもならないのです。悔い改めという言葉は世間でよく誤解されて用いられているのですが。それは単に後悔や反省するということとは違います。神の前に立ち帰る。われに返って神の方へ方向転換する。それが悔い改めであります。何度も自分の罪をほじくり返しては自分や人を責め続けるのは悔い改めではありません。
ネヘミヤとエズラは言います。「今日は、我らの主に捧げられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」解放の主を喜び祝うということこそが、聖なる日にふさわしい、というのです。
それに伴い礼拝の後でしょう。「人々は最上の食物を食べ、ぶどう酒を飲んだのです。その備えのない貧しい人々たちには、持っている人が分かち共に喜び祝うように促されています。ユダの会衆は皆、その日、心から主を喜んで、礼拝の日を祝い、それを力の源としてあゆみ出すことができたのではないでしょうか。

私たちはどうでしょうか。救主イエス・キリストは、私たちの罪を贖うために十字架につけられて死なれました。この主の十字架を見上げる時、私の、そして人間の罪の深さを思い知らされます。しかし主は、十字架の死では終わらなかった。3日後によみがえられたのです。罪を悔いる私たちが再び神の前に立ち帰って、新たに命を得、輝いて生きるようにと、主は復活されたのです。
私たちはこの復活なさった主と共に、神の救いの恵みを主の日の度毎に喜び祝うのであります。神は御独り子をこの地上に贈り、十字架の苦難と死を通して私どもの苦しみ、悲しみ、不条理や理解し得ない事どもすべてを知っていてくださいました。この神さまこそすべて人の痛みや苦悩をも共有してくださった。贖い救い出してくださった愛と恵みのインマヌエルの主であられるのです。主イエスは罪と死を打ち破って復活なさり、私たちはその捕らわれと滅びから解放してくださったのです。

私たちはこの礼拝において、主を喜び祝いつつ、これを力の源として生きていきます。この地上でのあゆみの終わりが来るまで主と共にあゆみ行く者でありたい。主の復活の希望を戴いているのですから。
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