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神を畏れ、ゆるされて生きる

2012-10-21 15:56:07 | メッセージ
礼拝宣教 ネヘミヤ記5章1-13 

本日はネヘミヤ記5章のところから「神を畏れ、ゆるされて生きる」と題し、御言葉を聞いていきます。先週は2章から、ネヘミヤがエルサレムとその周辺のユダの人々を城門の修復と城壁の再建の協働作業へと導いていった記事を読みました。ネヘミヤの呼びかけに対してユダの民は「早速、建築に取りかかろう」と応じ、この良い企てに奮い立った、というのであります。3章では、それぞれ住居に近いエルサレムの城門からその修復工事にあたります。自分たちの身近なところから自分にできることをなし、各々与えられた賜物を活かして城門の修復と城壁の再建工事に当っていったということでした。
次の4章では、その城壁再建の工事の情報がサンバラとトビヤ、それにアラブ人、アンモン人らに届くと、彼らは共謀してユダの人々を混乱に陥れようといたします。そういった外部からの攻撃に対して、城壁の再建作業に携わったユダの人々はどう対応したかといいますと、11節「城壁を築く者、もっこを担いで運ぶ者は、一方の手で作業をし、もう一方の手には投げ槍を取った。各自腰に剣を帯びて作業した」というのです。まあ何という緊張感の中でその作業が行われたかを伺い知ることができますよね。先週この自衛のための武器というのは私どもにとって祈りだいうお話をしましたが。こうして外部から襲ってくる敵、すなわち神の業を妨げようとする圧力に対して備えたというのであります。そのようにユダの人々は外敵からの侵入や攻撃に対処しながら、ネヘミヤの指揮のもと心を合わせ城壁の再建がなされていったのであります。

さて、ここからが本日のメッセージとなります。この協働による修復作業は外敵からの妨害にあってもある意味順調になされていったのでありますが、その最中ユダに凶作と飢饉が襲ってまいります。信仰をもってよかれと思ったことを始めたのになぜこのような不測の事態が生じるのか、と考えてしまいますが。ここではそのことからユダの民の問題が明るみに出てくるのであります。それは外敵からのものでなくユダ内部からのもので、ユダの内部の正されるべき問題でありました。
5章1節以降に次のようにあります。
民とその妻たちから、同胞のユダの人々に対して大きな訴えの叫びがあった。ある者は言った。「わたしたちには多くの息子や娘がいる。食べて生き延びるために穀物がほしい。」またある者は言った。「この飢饉のときに穀物を得るには畑も、ぶどう園も、家も抵当に入れなければならない。」またある者は言った。「王が税をかけるので、畑もぶどう園も担保にして金を借りなければならない。同胞もわたしたちも同じ人間だ。彼らに子供があれば、わたしたちにも子供がある。だが、わたしたちは息子や娘を手放して奴隷にしなければならない。」

ユダの地を襲った凶作と飢饉でユダの民は食べる物にも困り、貧しい生活を余儀なくされていました。殊に家族の多い家は大変な貧しさの中にあったのです。又、畑や家を抵当に入れて借金をし、息子や娘を奴隷にして売らなければならなくなっていました。その一方で、貴族や役人といった富裕層は貧しい人々の弱みにつけこんで土地を拡大し、利子を取ってますます富を得ていました。

このユダの同胞による嘆きと訴えを聞いたネヘミヤは、大いに憤りを覚え、居たたまれなくなって貴族と役人を非難した、とあります。彼は金を貸して利子を取ることを責めたのではありません。凶作と飢饉で貧しくされた者に対してどこまでも貪欲に取り立て窮地に追いやった無慈悲を責めたのです。このネヘミヤの激しい憤りと居たたまれない思いはどこから来ているのでしょうか? 

彼は大きな集会を召集してこう言います。
8節「わたしたちは異邦人に売られていた同胞のユダの人々を、できる限り買い戻した。それなのに、あなたたちはその同胞を売ろうというのか。彼らはわたしたち自身に売られることになるのに。」富裕層の人々にとってはまことにショッキングな告発であったことでしょう。
ここに「買い戻した」という言葉が出てまいりますが、これは贖いとったということですね。新約においてまさに神が御独り子イエス・キリストをして私たちを罪の奴隷の状態から贖いとって下さった、というときにも使われる言葉です。ネヘミヤ自身、神の御恵みによって「神の民としてゆるされ、生かされている」という大きな感謝とその神への畏れを強くもっていた、ということではないでしょうか。
元来ユダの民はかつてエジプトの地で奴隷であったけれど、神はその苦しみあえぐ民を導き出し、御自身の宝の民とされたのでした。また、民の背信、罪によって都が崩壊し捕囚の身となりながらも、神は契約と憐れみのゆえに再びユダの地に民を連れ戻してくださったのです。
裕福なユダの人々も、そして貧しさを強いられ、あえいでいるユダの同胞もまた、そのような神の宝の民であるのです。ネヘミヤには、神の民であるこの貧しい人たちが再び売られて奴隷の身になることは断じてあってはならない、という思いが根底にあったのではないでしょうか。
新約聖書に次のようなエピソードがあります。ルカ7章36節以降のところです。
イエスさまがファリサイ派の人たちと食事の席に着いていた時、ある罪深い女が香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近づき、涙を流しながらイエスさまに香油を塗りました。それを見ていたファリサイ派の人は、心の内に「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がどんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思います。すると、イエスさまはその思いを見通してこう言われます。「この女の人が多くの罪をゆるされたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。ゆるされることの少ない者は、愛することも少ない。」
ゆるさたことの大きさ、その重みを知っている人は、より深く主を愛するでしょう。そしてその愛はその人の人生に、生き方に反映されていきます。

ネヘミヤは、ユダの貴族や役人などの富裕層に向けてこう言います。
9節「神を畏れて生きるはずではないのか。」
それはかつて自分たちが救いに与った者であることを思い起こすことです。又、それは罪ゆるされた事への感謝を忘れないことです。

ネヘミヤはペルシャ王の献酌官として地位を得て裕福でした。ユダの地に入ってからは貧しい人たちにお金や畑や産物を貸していたのです。それは神さまが貧富の差に拘わらず民を憐れんでおられるゆえに彼もそうしたのです。それが神の律法でありました。
ところがユダの富裕層は、貧しい人たちを苦しめ、搾取していました。ネヘミヤはその事に対して「神を畏れず、神の律法に反する行為だ」と、彼らに問うたのです。そしてネヘミヤはユダの富裕な貴族や役人らに、「わたしは(貧しい人たちに貸した)負債を帳消しにする」と宣言し、「あなたたちも今日あなたたちに負債のある者に返しなさい」と奨励します。ネヘミヤは自らの態度で神の愛に生きる者のあるべき姿を示したのです。
それを聞いた富裕な人たちに悔い改めが起こされました。彼らはネヘミヤの言葉に呼応するように「お言葉どおりにします」と表明するのであります。裕福な人びとにとって自分の持ち物を手放したり他人に与えたりすることはそう容易なことではありません。しかし彼らはネヘミヤを通して「神を畏れ、神にゆるされて生きる」ことの恵みを思い起こし、その恵みに応えて生きるその人生へと方向転換されたのです。その後ネヘミヤは14節以降を読みますと、ユダの地の長官(総督)になってからも給与を一度も受け取ることも、土地の買収もしませんでした。又、城壁の修復工事で集まるユダの人々と役人すべてに毎日食事を振る舞い、その負担を軽減させたとあります。

篠栗教会の牧師の頃に、あるキリスト教の月報チラシを発行している某会社から文書伝道の働きが財政難で続けられかどうかわからないのでぜひ融資をしてくれないか、わずかずつでも責任をもって返済するというお話がありました。月報チラシの内容もよいものであったので私と妻2人で相談して、「それなら」ということで、私どもにとっては結構こたえる大金を送金しました。まあその後数カ月まではその月報チラシが毎月10部くらい送られてきてはいましたが。その後は連絡も会計報告なく、なしのつぶて。何度かお手紙を出しましたら、「いまだ資金難が続いております、もう少しお待ちください」ということで、さらに待って10年近く経ってしまいました。もう恐らく戻ってはこないでしょう(笑)。まあそのようなケチな私であり、ネヘミヤとは比べようもない者でありますが。このネヘミヤの姿勢に示される「神を畏れ、ゆるされて生きる」者にふさわしい応答の日々をあゆんで行きたいと、願わされるものです。

最後に、もう一つ今日の箇所から思わされました事は、「教会が建てられていくとは何か?」ということです。ユダの城壁再建の作業は見た目にはほんとうにうまく進んでいたように見えていても、凶作や飢饉といった出来事によって、その内部が抱えている問題が表に吹き出しました。それは正されるべき事でした。神さまは目に見えるところの再建だけでなく、神の民としての霊的再建を望まれたのです。
いくら立派な教会堂が建ち、またそこに多くの人が集い栄えているように見えてもです。ルカ12・21でイエスさまは「神の前に豊かにならない者は愚か」と言っています。神の共同体にとっての豊かさ。それは何でしょう?私たちは皆それぞれ違いがあり、異なるものを持ち、その立場も違う者でありますが。「神にゆるされている者同志である」ということで一致しているのです。「主にあって」一つなのです。この主の愛をもって互いに仕え合って生きる。ゆるし合い、喜びも悲しみも分ち合って生きる。そこにキリストの香りを放つ教会が建てられていくのです。「神を畏れ、ゆるされて生きる」姿をもって、私たちの主を益々証ししてまいりましょう。いつも主イエスの御救いに与った者であることを思い起こしつつ、罪ゆるされた事への感謝を忘れずにあゆんでまいりましょう。
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