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人生の海の嵐に

2012-04-29 14:50:51 | メッセージ
宣教 使徒言行録27章1~44節 

人生はよく船の航路にたとえられますが。私たち一人ひとりにそれぞれの人生行路というものがあるでしょう。その旅路はいくつもの港を経由しながら順風満帆日々もあれば、時に予期せぬ嵐に遭い、荒波にもてあそばれるかのごとく思えることもあるかも知れません。その時私は何を頼りに、又何を指針としていけばよいのか?神さまは聖書という羅針盤を私たちに与えていて下さいます。今日も御言葉から生きるべき人生の行路を尋ねてまいりましょう。

本日の箇所はパウロたちを乗せた船が暴風に襲われ、難破し、マルタ島に打ち上げられていくという実にスリリングで、波乱に満ちた出来事が記されています。使徒パウロは3度の伝道旅行の後、エルサレムで捕えられ、船でローマに護送されることになります。このローマを目指して出港した船は一般の都市に寄港していたことから、民間の船舶であったようで、それも暴風にあった時には276人が乗っていたとありますこと
からかなり大きな船であったようです。船長や船員をはじめ、多くの一般の乗客もいたのでしょう。これにローマに護送される囚人たちと兵隊たちが加わります。この囚人たちの中にキリストの福音を伝えるがゆえに捕えられたパウロやアリスタルコ、又名前は時に記されていませんが、この使徒言行録の執筆者であるルカがいました。それ以外にも複数の他の犯罪人たち、中には死刑に処せられるためだけにローマに護送される重犯罪人たちもいたのでしょう。実にローマに向けて船出したその船には、このように多様な人たちが乗船していたのです。

この27章を読みますと、そのように様々な人々の中にあってキリスト者として生きるパウロたち信仰者の姿勢と働きに焦点があてられていることがわかります。そこにはキリスト者が荒波の中でどう生きるのか、そしてその生き方が周りの人に及ぼす影響についても記されています。彼らはこの時囚人としてそこにいたのですが、その命の危機ともいえる事態にさらされながらも、彼らの態度は何と自由なのでしょうか。恐怖に囚われてただ慌てふためき、乗客を見捨てて逃げ出そうとする船員たちや囚人たちの逃亡を恐れて皆殺しにしようとした兵隊たちの姿と、それは対照的でした。もちろんパウロたちに全く不安や恐れがなかったとは思えません。けれども、彼らはその厳しい状況の中におかれても、十字
架の苦難と死から復活された主を信じ、その主に望みをかけ、キリスト者としてその状況を生き抜いたのです。彼らは暴風の中で主の御声に聞いていました。そして聞いた言葉に信頼していたのです。
 私たちの人生を押し流そうとするような大波、先の見えないような暴風の中で、どう生きるか。その時私たちの信仰がほんとうの意味で問われます。蓄えられた御言葉、主の御業を見るには忍耐と祈りも又必要でしょう。そこに同じく乗船している兄弟姉妹の存在が助けとなります。励まし合いと祈り合う中で、互いに力づけられつつ、人生の行路を渡っていきたいものです。

ここに記されたパウロらの働きと行動でありますが。それは祈りと聖霊の導きのもとでなされていったことがわかります。彼らは22節「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」25節「皆さん、元気を出しなさい。わたし
は神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」と、自分たちに命の危機が迫っていたにも拘らず、乗船している一人ひとりを励まし、アドバイスをして元気づけます。これはただ人情や気力だけで出来ることではありません。そこには、主が必ずや共におられる、という平安が彼らのうちにあったからこそ、発することのできたメッセージと言えましょう。
 使徒パウロはコリントの信徒に宛てた第二の手紙の冒頭でこう記しています。「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」
主にゆるされ、生かされ、愛されているその慰めの体験が、隣人への執り成しの祈りや励まし、アドバイスとして発せられていったことを、心に留めたいと思います。

さて、パウロは「わたしに告げられたことは、その通りになる」と語っていますが。それは、具体的に「乗船する276人の誰一人として命を失う者はない」ということでした。主の約束の言葉を確信したパウロは、その約束が実現されるため行動します。
彼はまず、人々の間に立ち、神さまからの希望のメッセージを伝えます。又、船員たちが船から小舟を海に降ろし乗りこんで逃げようとした時、百人隊長や兵士たちに向かって、31節「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたたちは助からない」と、警告を発しました。もし、この後の航海に船員たちが不在となれば、誰も命の保証はなかったでしょう。「誰一人として命を失う者はいない。」それは276人がそろって力を合わせて生き延びるということでありました。
また、パウロは乗船する人々に対し、「どうぞ、何か食べてください。生き延びるために必要なのです」と言って、一同に食事をさせ、元気づけました。不安の中でも、顔と顔を合わせながら食事をするという行為は、人に生きる力を起こさせた事でしょう。ここにも「誰一人として命を失う者がない」との主の約束に、応えて生きるパウロの姿があります。

毎年1月から2月にかけて釜キリスト教協友会が計画し行われる路上生活者への越冬夜回り活動に、私も参加させてもらっていますが。そこでの合言葉が「路上で一人も凍死者(命を失う者)を出さない」というものなのです。パウロが天使のみ告げを聞いて一同に語った「誰一人として命を失う者がない」との言葉とそれが、私に重なって響いてまいりました。厳冬のための凍死、又アルコール中毒でそのまま路上で命を失うことなど、主の御心ではない。きっとそうです。

さて、このパウロが天使から聞き、一同に語った「誰一人として命を失う者はないのです」との御言葉の確信は、船の難破という事態によって、大きく揺さぶられることになります。
船尾が激しい波で壊れ出した時でした。兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、全員を殺そうと計ったのです。ほんとうに緊張した状況です。
 ところがそこに、百人隊長が出てきて「この計画を思いとどまらせた」というのです。
それは囚人の一人であった「パウロを助けたいと思った」からだと記されています。
この百人隊長は、暴風に襲われた時に、パウロがその事態にも翻弄されることなく神の言葉に聞き従い、確信をもって指示や行動し、又乗船する人たちを励まし、力づけていった姿をずっと心に留めていたのでしょう。そのパウロのうちに息づく神の霊、命への熱い思い、生きる希みを持って皆を励まし元気づけていったその姿に、心動かされたのではないでしょうか。
かくして、百人隊長は、「泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令し」、276人全員が無事に上陸したとあります。
このようなかたちで、神さまのご計画は「そのとおりになった」、というのであります。
想像しますに、最後の一人が陸に上がったことには276人のうちに立場を超えた強い絆が生まれたのではないでしょうか。

この聖書の記事は、嵐に遭遇した船の中という非常に厳しい状況下にあって、神の御心に生きるキリスト者が、主の御声に聞いて行動した。そのことを通して人々の間に互いに信じ合う関係、又生きることへの希望と信頼が生まれていった。そのような物語であるといえるでしょう。
しかしここには、さらなる神さまからの大きな福音のメッセージが秘められているのではないでしょうか。ヨハネ3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここには神さまの大いなる御業、十字架の苦難と死を通してもたらされた救いの完成を読みとることができます。
私たちはこの大阪教会といういわば福音の船に同船しているのです。ここに新来会者、求道者の方、あるいは私たちのそれぞれの家族、友人が同船してこられることもあるでしょう。実に多様な人たちがこの船に乗って来られ、主はその誰一人としてその命が損なわれることがないように切に願っておられる、ということです。
私たちも人生の海の嵐のような事態に遭遇し、押し流されるばかりになるということがあるかもしれませんが。そこで、しかし究極には神さまの御手のうちにおかれているのだという確信と信頼をもって、主のご計画に参与する器とされてまいりましょう。
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