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復活の希望

2012-04-08 16:07:39 | メッセージ
イースター宣教  ルカ23章55節~24章12節 

イースターおめでとうございます。
イースターはイエス・キリストの復活を記念する祝日であります。日本ではクリスマスのように盛大に祝われておりませんが、世界の23億人ともいわれるクリスチャンがクリスマスと並ぶ最大級の祝祭として多くの国々で祝われております。私どもは毎日曜に礼拝をいたしますが、それはイエス・キリストの復活が日曜の朝に起こったことから、その日を記念して礼拝を捧げているということです。ですから毎週日曜ごとの主日礼拝がイースターであるといってもよいでしょう。
今年のイースター礼拝は教会歴で4月8日ということですが。このイースターの日付は実は毎年異なっています。クリスマスなら毎年12月25日を軸にその前の日曜がクリスマス礼拝と決まっていますが。イースターは紀元325年にローマのキリスト教会公会議で、その年の3月21日(春分の日)から最初の満月(大潮)にあたる日曜日にすると取り決められたということです。それからずっとそれに従って決められてきたというのです。ですからイースターは一番早くて3月21日ですが、遅ければ3月21日から一カ月先にもなるのですね。今年は春が来るのが随分遅くなりましたが、丁度桜満開の中で、「主イエスが復活された記念の日」にふさわしく迎えることができました。
私どもの人生も時として長い冬のように感じられる状況におかれることもございます。けれども必ず時が来れば桜の花が咲き、穏やかで暖かい日が巡ってくる。イースターは「復活の希望」を呼び覚ましてくれる主の力強い励ましを頂く日でもあるのです。

そういうことで、本日は「復活の希望」と題し、御言葉を聴いていきたと思います。
まず23章55節~56節で「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後をついて行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」とあります。

この婦人たちは弟子たちと共にガリラヤからずっとイエスさまに従って来た人たちです。彼女らはイエスさまが十字架刑によって息を引き取られる最期を、遠くに立って見ていました。アリマタヤのヨセフというユダヤの議員であり、神の国を待ち望んでいたとされる人物が、イエスさまの遺体を引き取って丁重にお墓に葬るのですが。婦人たちはその後について行き、この納められる有様を見届けました。そして、イエスさまの遺体に塗るための香料と香油を家に帰って準備したのであります。
この「イエスさまの十字架と復活」の肝心な時、そこにイエスの弟子たちの姿はありません。彼らに代わってそこにいたのは、イエスさまを慕ってやまなかった婦人たちでありました。彼女たちこそが、最初の主イエスの復活の証人であり、それを宣べ伝えた人たちであったのです。
さて、ユダヤの人々にとって安息日は金曜の日没から始まります。その間、歩く距離や行動も規制されていましたので、婦人たちは安息日が明けた日曜の夜明け前のまだ薄暗い時分に準備しておいた香油をもって、イエスさまの遺体が埋葬された墓に向うのであります。
「おくり人」という映画でよく知られるようになりましたが、日本でも亡くなった人の身体をきれいにしてあげて、女性ならお化粧をして丁寧に旅立つ準備を施してさし上げるという風習がございますが。この婦人たちはイエスさまが息を引き取られて3日も経っていましたけれど、香料をそのお体に塗るためにやって来たのでした。

私はここのところで「準備しておいた香料をもって」のこの「準備していた」という言葉が心に留まりました。イエスさまのために自分たちの成し得る最善の準備をしていた。それは彼女たちがどれほどイエスさまを慕っていたか、という思いの表れと言えるでしょう。
同様に「神の国を待ち望んでいた」アリマタヤのヨセフもそうでした。彼は議員という立場でしたが、その身分をも投げ打つ覚悟で勇気をもってピラトに、「十字架刑に処せられたイエスの遺体を渡してくれるように願い出て」許可を得るのです。彼もまた丁重にイエスさまを葬るための準備をなし、その遺体をまだ誰も葬られたことのない岩に掘られた墓に納めたのです。
婦人たちもこのヨセフも主イエスの愛と恵みを知る人たちでした。真理を喜び、神の国を待ち望んでいました。彼らが主イエスのためになしたことは世間からすれば理解不能な事であったかも知れません。けれどもそこに真心がこもっていました。感謝と愛が溢れていました。主の御前に礼拝する。主に奉仕やささげものをなす。心を込めて最善の準備を行う。きっとそれらの人々の思いを通して、主の栄光の御業が現わされることになるのであります。

さて、その婦人たちが墓に着くと、2節-3節「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」のいうのです。
何ということでしょうか。ここ一週間婦人たちは予想もしなかった出来事にでくわしてきたわけですが、この奇妙な出来事にはさすがに驚き恐れたに違いありません。彼女たちは確かに墓に納められたイエスさまのご遺体を見届けたのでありますが、それが墓にないのであります。どれ程混乱をきたしたことでありましょう。まさしく想定外の状況です。しかし本当にそれは、彼女らにとって全く意味不明の出来事だったのでしょうか?
いいえ、実はイエスさまは捕えられるずっと以前から二度、三度と、御自分が「必ず多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活なさる」との告知をなさっておられたのであります。けれども、愛するイエスさまが無残な死を遂げ、墓に葬られる様を目の当たりにした時、もはや復活の約束の言葉はどこかへ吹っ飛び、脳裏に浮かぶことさえなかったでありましょう。
私たちはどうでしょうか。思いもよらない出来事に混乱したり、心配や不安で心が揺れ動く。頭をもたげるような重たい状況に気持ちが沈み、折れそうになる。自分の意志だけではどうしようもないそんな時があるのではないでしょうか。人間である以上私たちも又、途方に暮れることがあるのです。
そのように途方に暮れている婦人たちに輝く衣を着た二人の人がそばに現れます。恐れて地に顔を伏せる彼女たちに二人は次のように言います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。この二人は主の天使であったとみてよいでしょう。天使は「あの方は復活なさったのだ」と明言いたします。そして「ここにはおられない」。つまり、もう死者の中にはおられないのだ、と言うのです。唖然とする婦人たちに天使はなおも続けます。「あの方が、まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。

8節「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」と記されています。
天使がイエスさまのお話になったことを思い出すように促したこと。それによって婦人たちが「イエスさまの言葉を思い出した」ということに重要な意義があります。
確かに、この婦人たちは弟子たちと共にガリラヤからずっとイエスさまに従う中で、幾度もご自身の受難の予告と復活について聴かされていたのです。けれどもその時はまだ成就していませんでしたから、そのお言葉の真意が理解できませんでした。御言葉は受難と死を経、三日目に主イエスが復活なさることによって成就したのです。そこで初めて婦人たちはイエスさまのお言葉を思い出し、イエスさまがかつておっしゃったとおり、真に「復活なさった」と、確信するのです。しかしそれは肉眼で復活されたイエスさまを見ることではなく、霊の目でもって復活された主イエスを確認するということです。
復活後エマオ途上の弟子たちに現れなさった時もそうでした。主は彼らと一緒に歩いていかれますが、弟子たちはそれが主イエスだと分かりません。ところが主イエスと一緒に食事の席についた時、パンを裂いて渡された時に、目の前におられる方が主イエスだと分かった。その瞬間もはや彼らの目にイエスさまの姿は見えなくなります。彼らは主が道で話しておられたことを思い出し、霊の目が開かれて、イエスさまが復活されたことを知ったのであります。
実はこのようなことは、御言葉に聴き従って生きる私たちも経験していることです。
先に述べましたような状況に陥って途方に暮れている時。自分の側からではなく、向こう側からの、それが兄弟姉妹を通して御言葉を示されたり、思い起こしされていく中で、「ああ、主は生きておられる。主は共にいてくださる」と、霊の目が開かれる。救いの希望に与る。主イエスが復活なさった最初の日から初代教会の人々をはじめ、代々の教会とキリスト者、そして今日の私どもも又、そのようにして霊の目が開かれ復活の主を仰ぎ見ることができるのであります。
ここ大阪教会では、祈祷会での聖書のみ言葉の分かち合い、また礼拝宣教後の応答のときが持たれています。聖書の御言葉や礼拝宣教をただ一方的に聴くだけでなく、それを共に分かち合うということは大変豊かなことです。御言葉はそれを聴いた時、当座はそれ程心に響いてこなかったとしても、いろんな人とそれを分かち合う中で、又様々な日常の関わりの中で、先ほども言いましたが、「ああ、あの時の御言葉は、主がこういう事を私に示すためであったのか」と、後になって気づかされ、力づけられ、望みを与えられ、「ああ、こういう形で主はご計画されていたのだ」と、後になってハッとさせられるということを、私たちは幾度となく体験してきたのではないでしょうか。
ですから、御言葉を読むこと。聴くことは本当に大切なことです。御言葉を聴かなかったなら思い出すことはないのです。思い出すためには、日々御言葉に聴き、御言葉を私たちのうちに蓄えておく必要があります。それはどんなに豊かな事、大きな恵みと力になるでしょう。まさに神の民として歩む道を教え、私たちに命を得させるのです。私たちが日頃から御言葉に慣れ親しむことは、霊の目でもって主のご計画や御業を知ることになり、又主の御心を生きる指針ともなるのです。

さて、この婦人たちは9節「墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」とあります。
死者の中にイエスさまを捜していた婦人たちでありましたが。今や、彼女たちは墓を後に復活の主イエスを宣べ伝える福音の伝達者に変えられるのであります。しかし、それを聞いた「弟子たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」というのです。それはこの時代の女性たちへの偏見や差別といった風潮が社会にあったのかも知れません。しかし、たとえそれが男性から伝え聞いたものであったとしても、弟子たちが信用できたかどうか分かりません。問題は彼らの霊の目が、いまだ開かれていなかったという点にあります。この女性たちも数時間前まではやはりそうでした。けれども彼女らは、「イエスさまが十字架につけられ、三日目に復活なさった」との主の天使の宣言と共に、御言葉の真実を霊の目でもって確信するに至ったのです。それはまさに、絶望と悲嘆から復活の主に全身全霊を傾けて生きる人生への方向転換であります。
復活なさったイエスさまは、お約束なさったように私たちに今日この日もご聖霊を送り、今も生きておられます。そして信じる者に、そのお姿に与る復活の約束を与え続けていてくださいます。主イエスを信じて生きる者は、たとえ地上でのあゆみに終わりが来たとしても、主の復活のお姿に共に与らせて戴く希望があります。その希望を伝え、共に分かち合うべく祈り、御言葉に聴き従って歩んでまいりましょう。
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