箴言9:5-6 来て、わたしのパンを食べ、わたしの混ぜ合わせた酒をのみ、思慮のないわざを捨てて命を得、悟りの道を歩め。
先には、知恵とは「知恵あるお方」として人格表現がなされていることを見ました。その知恵あるお方が、私たちに呼びかけておられます。
「思慮のない者よ、ここに来たれ」と(9:4)。※「思慮のない者」は「わきまえのない者」(新改訳)、「浅はかな者」(新共同訳)とも訳されている。
私たちは自分が知者だと思い上がってはなりません。御言はこう語っています。
「だれも自分を欺いてはならない。もしあなた方の内に、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。
『神は、知者たちをその悪知恵によって捕える』と書いてあり、更にまた、『主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである』と書いてある」(Ⅰコリント3:18-20)。
この世の知恵は、地上でうまく生きるための知恵に過ぎません。しかし、「思慮のない者よ、ここに来たれ」と招くお方の知恵は、天で永遠に生きるための知恵です。
また、この世の知恵は、人の目に賢く、人前に格好良く生きるための知恵に過ぎません。しかし、「思慮のない者よ、ここに来たれ」と招かれる方の知恵は、神の御前に正しく生きるための知恵です。
ですから、このお方(イエス・キリスト)のもとに行って本当の知恵を得よと教えているのです。御言はこうも語っています。
「あなた方のうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ヤコブ1:5)。
イエス・キリストは、「な~んだ、そんなことも知らないのか」となじったり、とがめたりなさらないのです。ですから、恥ずかしがらずに、求めればよいのです。「恥ずかしがる」こと自体が、自分を知者だとする高ぶりがあるからです。
さて、その知恵あるお方であるイエス・キリストは、私たちを招いて更にこう言われます。それが今日の聖句です。不思議な呼びかけです。「来て、わたしのパンを食べ、わたしの混ぜ合わせた酒をのめ」と。
パンを取って弟子たちにわたして「わたしの肉を食べなさい」と言われ、また、ぶどう酒の杯をとって「これはわたしの血だ。これを飲め」と言われたイエス・キリストを想起させます。
そうです。イエスの肉を食べ、イエスの血を飲む者こそ、今日の御言がいうように「思慮のないわざを捨てて命を得、悟りの道を歩む」ことになるのです。
「わたしは天からくだってきた“いのちのパン”である」と言われたイエス・キリストに、当時の知者たちはつまずきました。「これはひどい言葉だ。誰がそんなことを聞いておられようか」と言って、これ以来、多くの弟子たちはイエスと行動を共にしなくなったのです(ヨハネ6:60、66)。
本当の賢さとは、自分のこざかしい知恵をかなぐり捨てて、イエスの御許にひれ伏すことです。イエスの肉と血にあずかって永遠のいのちを得ることです。
最後に、同じように「思慮のない者よ、ここに来たれ」と呼びかける別の招きがあることも指摘されています(箴言9:13-18)。それは「彼女」に象徴されている闇の世からの招きです。しかし、その末路は滅びであると指摘しています。(Ω)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます