朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

箴言 9章

2015年11月16日 | 箴言

箴言9:5-6 来て、わたしのパンを食べ、わたしの混ぜ合わせた酒をのみ、思慮のないわざを捨てて命を得、悟りの道を歩め。

先には、知恵とは「知恵あるお方」として人格表現がなされていることを見ました。その知恵あるお方が、私たちに呼びかけておられます。

「思慮のない者よ、ここに来たれ」と(9:4)。※「思慮のない者」は「わきまえのない者(新改訳)、「浅はかな者(新共同訳)とも訳されている。

私たちは自分が知者だと思い上がってはなりません。御言はこう語っています。

だれも自分を欺いてはならない。もしあなた方の内に、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。

神は、知者たちをその悪知恵によって捕えると書いてあり、更にまた、『主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じであると書いてある(Ⅰコリント3:18-20)

この世の知恵は、地上でうまく生きるための知恵に過ぎません。しかし、「思慮のない者よ、ここに来たれ」と招くお方の知恵は、天で永遠に生きるための知恵です。

また、この世の知恵は、人の目に賢く、人前に格好良く生きるための知恵に過ぎません。しかし、「思慮のない者よ、ここに来たれ」と招かれる方の知恵は、神の御前に正しく生きるための知恵です。

ですから、このお方(イエス・キリスト)のもとに行って本当の知恵を得よと教えているのです。御言はこうも語っています。

あなた方のうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう(ヤコブ1:5)

イエス・キリストは、「な~んだ、そんなことも知らないのか」となじったり、とがめたりなさらないのです。ですから、恥ずかしがらずに、求めればよいのです。「恥ずかしがる」こと自体が、自分を知者だとする高ぶりがあるからです。

さて、その知恵あるお方であるイエス・キリストは、私たちを招いて更にこう言われます。それが今日の聖句です。不思議な呼びかけです。来て、わたしのパンを食べ、わたしの混ぜ合わせた酒をのめと。

パンを取って弟子たちにわたしてわたしの肉を食べなさいと言われ、また、ぶどう酒の杯をとってこれはわたしの血だ。これを飲めと言われたイエス・キリストを想起させます。

そうです。イエスの肉を食べ、イエスの血を飲む者こそ、今日の御言がいうように「思慮のないわざを捨てて命を得、悟りの道を歩む」ことになるのです。

わたしは天からくだってきた“いのちのパン”であると言われたイエス・キリストに、当時の知者たちはつまずきました。「これはひどい言葉だ。誰がそんなことを聞いておられようか」と言って、これ以来、多くの弟子たちはイエスと行動を共にしなくなったのです(ヨハネ6:60、66)

本当の賢さとは、自分のこざかしい知恵をかなぐり捨てて、イエスの御許にひれ伏すことです。イエスの肉と血にあずかって永遠のいのちを得ることです。

最後に、同じように「思慮のない者よ、ここに来たれ」と呼びかける別の招きがあることも指摘されています(箴言9:13-18)。それは「彼女」に象徴されている闇の世からの招きです。しかし、その末路は滅びであると指摘しています。(Ω)










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