東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

石坂

2012年04月12日 | 坂道

石坂下 石坂下 石坂下側 石坂下側 前回の新坂(福山坂)上を東へ進み、次の四差路を右折し、南へしばらく歩くと、曲がりながら下り坂となる。ここが石坂であるが、いったん、坂下まで下り、それからふたたび上った。

坂下の先は、蒟蒻閻魔(こんにゃくえんま)から延びてきた道につながるが、そこから引き返し、小路を通り抜けると、一、二枚目の写真のように広くなった感じの坂下になる。このあたりの上りはまだ緩やかである。

三枚目のように、坂下側の右端に坂の標識が立っているが、次の説明がある。

「石坂(いしざか)
「町内より南の方、本郷田町に下る坂あり、石坂とよぶ・・・・・」『新撰東京名所図会』
 この坂の台地一帯は、備後福山藩(11万石)の中屋敷、幕府の御徒組、御先手組の屋敷であった。
 明治以降、東京大学が近い関係で多くの学者、文人が居住した。田口卯吉(経済学者・史論家)、坪井正五郎(考古学・人類学者)、木下杢太郎(詩人・評論家・医者)、上田敏(翻訳者・詩人)、夏目漱石(小説家)、佐佐木信綱(歌人・国学者)、和辻哲郎(倫理学者)など有名人が多い。そのため西片町は学者町といわれた。
        ― 西片町の景 ―
 交番の上にさしおほう桜さきけり
      子供らは遊ぶ おまわりさんと
                 (佐佐木信綱)
  文京区教育委員会  昭和60年3月」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 石坂中腹 石坂中腹 石坂中腹 上四枚目、二枚目の写真のように、ちょっと上ると、左にカーブしており、ぐるりとかなり曲がり、しかも勾配もつくようになる。この坂の特徴的なところである。

一枚目は、尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、いまの本郷通りの西側で、広い阿部伊豫守邸が見える。ここが上記の備後福山藩の中屋敷である。その屋敷の西端にある大善寺の辺りがこの坂の位置と思われるが、この坂はまだ見えない。

明治四十年(1907)の明治地図には、この坂が見え、坂下が広く描かれている。いまも広いがこれは当時からであったようである。この坂は、明治になってから開かれたものであろう。

坂名の由来はなにか、いずれの参考文献にも記されておらず、不明である。

石坂上側 石坂上側 石坂上 石坂上 上記の坂のカーブを曲がると、一、二枚目の写真のように、西へまっすぐに中程度の勾配で上ってから、坂上側で、三、四枚目のように右にカーブしながら北へ向きを変えて緩やかに上っている。坂上には石垣などもあり、古めかしさが残っている。

本郷台地の一部である坂上と、白山通りから東へ延びる低地である坂下とをつなぐ坂である。坂下の道は、菊坂下から本郷通りの方へ上っており、地下を南北線が通っているが、南北に延びる本郷台地の中央付近に東西へ発達した谷であったのであろう。

上記の標識の説明にもあるように、夏目漱石は、このあたりの西片町にも住んでいたことがあった。明治39年(1890)12月本郷区千駄木五十七番地(以前の記事参照)から本郷区西片十番地ろノ七号に転居している。現在の文京区西片1-14-8である(旅のあれこれ)というが、ここは、この坂上の通りの西側(四枚目の写真の左側)である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「新潮日本文学アルバム 夏目漱石」(新潮社)

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