前回の胸突坂上を進み、次を左折し北へ歩き、左に公園が見えてくるが、その手前を左折しちょっと歩くと、一、二枚目の写真のように、中坂の坂上である(白山一丁目24と27との間)。かなりの勾配でまっすぐに西へ下っている。西向きであるので、前回の胸突坂のようにここも西日がまぶしい。
坂下は前回の胸突坂下から続く道で、曙坂や胸突坂と同じく本郷台地と中腹の間の坂である。
いつもの坂標識が立っていないが、中坂とは、横関によれば、それまであった二つの坂の間に新しくできた坂で、ここは、前回の胸突坂と、この北隣にある浄心寺坂との間の坂で、これらの後にできた新坂と思われる。同名の坂で有名なのは、九段坂と冬青木坂との間にある中坂である。
一枚目の尾張屋板江戸切絵図小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図で、中央やや左にある「東儀」(表示は逆さま)という小さな武家屋敷のわきの道が胸突坂で、その隣が順に、鈴木、米田で、道を挟んで「小役人」とあるが、「米田」と「小役人」との間の道がこの坂である。ここにも坂名も坂マークもないが、近江屋板にもない。御江戸大絵図(天保十四年(1843))にもこの坂道が見える。
この坂は『御府内備考』(文政十二年(1829))の丸山新町の書上に新道坂・胸突坂の次に以下のように説明されている。
「一坂 十八間余、巾八尺程、
右は町方西の方裏通り中程、御武家屋敷の間より同所馬場の方え下り候所に有之、中坂と唱申候、尤新道坂、浄心寺坂相並び候中程に有之候坂故相唱来候哉に奉存候、前文同様武家方持に御座候、」
この説明でも、新道坂(胸突坂)と浄心寺坂に並び、その中程にある坂であるので、中坂とよんだとしている。
明治四十年(1907)の明治地図にも胸突坂と浄心寺坂との間にこの坂がある。この胸突坂と浄心寺坂との間、坂上一帯を丸山新町といった。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)