東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

逸見坂

2012年04月25日 | 坂道

逸見坂下 逸見坂下 逸見坂下側 逸見坂下側 前回の蓮華寺坂下の交差点を北へ渡り、白山通りの歩道をそのまま進み、二本目を左折すると、逸見坂の坂下である。歩道からまっすぐに南西へ上っている。一、二枚目の写真は、左折して坂下から坂上を撮ったものである。

この坂は、ほぼ直線状になっているが、二ヶ所で横道と接続し、特に下側の交差部で緩やかになっているので、坂に緩急がついて勾配がかなり変化する。

坂下を見ると、三、四枚目の写真のように、白山通りがすぐである。

二、三枚目の写真のように、坂下側に坂標識が立っていて、次の説明がある。

「逸見坂(へんみざか)  文京区白山4-32と34の間
 「白山神社裏門の南、小石川御殿町と指ヶ谷の間より南へ御殿町へ上る坂あり、逸見坂といふ、旧幕士逸見某の邸、坂際にありしより此名に呼ぶなり」(『東京名所図会』)
 武家屋敷にちなむ坂名である。このあたり「旧白山御殿町」で、逸見坂はその北のはずれにあたる。
 町名の由来は、白山御殿(後に五代将軍になった館林候綱吉の屋敷)からきている。
 御殿廃止後、幕府の薬園(現在の小石川植物園)となる。
 坂の西側の「本念寺」には蜀山人(太田南畝)の墓がある。
   文京区教育委員会  平成元年11月」

逸見坂下側 逸見坂中腹 逸見坂上側 逸見坂上 一、二枚目の写真のように、中腹でちょっとした勾配が続くが、四枚目の写真のように、坂上に至るとかなり緩やかになる。

横関は、白山神社裏門のところ竜雲院の前から西南に植物園の方へ上る坂としているが、竜雲院の前の道と現在の坂下(白山通りの歩道)との間は、広い白山通りで分断されている。

白山通りができる前の戦前の昭和地図(昭和十六年)を見ると、確かに竜雲院の前から延びている。明治地図(明治四十年)はちょっと道筋が違うが、竜雲院の前からこの道筋が延びている。坂下は、むかし、現在の歩道のところから白山通りを横切って竜雲院前まで延びていたようである。

坂上は、小石川植物園の裏に上るとされている(石川)が、三枚目のように、植物園に至る前の中間のところでかなり緩やかになっている。

東都駒込辺絵図(安政四年(1857)) 御大江戸絵図(天保十四年) 寛延三年図(1750)に、坂西側に「逸見弥左衛門」の屋敷が見えるという(横関、石川)ことで、この坂は逸見という武家屋敷があったことに由来するが、一枚目の尾張屋板江戸切絵図の東都駒込辺絵図(安政四年(1857))の部分図を見ると、白山権現裏手の龍雲院前から下側(南西)にまっすぐに延びる道に「ヘンミサカ」とあるものの、逸見という屋敷はない。近江屋板(嘉永三年(1850))にも「△ヘンミザカ」とあるが、逸見邸はない。

二枚目の天保十四年(1843)の御江戸大絵図の部分図を見ると、白山権現裏門のリュウウンジの前から斜め上に延びる道がこの坂道であるが、その右側(西北)に、坂下から、コンドウ、アサノ、サカイ、ヘンミ、とある。この「ヘンミ」が寛延三年図(1750)にあるという逸見邸かどうか確証はないが、同じと考えた方がよいような気がする。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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