東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

根津裏門坂

2012年02月08日 | 坂道

根津裏門坂下側 根津裏門坂下側 根津裏門坂下 前回の新坂を下り、坂下を曲がってからちょっと直進し、左折すると、根津神社の参道である。ここから入って、境内を縦断するようにして進むと、神社の裏門がある。ここから神社の外に出ると、左右に坂道が続いているが、ここが根津裏門坂である。

一枚目の写真は裏門を出たあたりの坂下側から坂上側を撮ったもので、二枚目は坂下を撮ったものである。この坂は、三枚目の写真のように坂下からかなり緩やかにまっすぐに上っているが、一枚目の写真のように中腹の信号のところで右にわずかに曲がり、この前後からちょっと勾配がついている。

裏門近くの歩道に坂標識が立っているが、次の説明がある。

「根津裏門坂
 根津神社の裏門前を、根津の谷から本郷通りに上る坂道である。
 根津神社(根津権現)の現在の社殿は、宝永3年(1706)五代将軍綱吉によって、世継ぎの綱豊(六代家宣)の産土神として創建された。形式は権現造、規模も大きく華麗で、国の重要文化財である。
 坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(“猫の家”)があった。『我輩は猫である』を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。
  (家は現在「明治村」に移築)
  文京区教育委員会  平成20年3月」

根津裏門坂中腹 根津裏門坂中腹 尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 一枚目の写真のように、坂下側から坂中腹を見ると、信号を越えた右側(北)にある建物は日本医科大学付属病院である。そのためか、タクシーがたくさん並んでいる。

この坂は、東西に延び、坂上を西へ直進すると本郷通りに出て、坂下を東へ行くと不忍通りに出るので、両通りをつなぐ道となっている。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、根津権現の北側に東西に延びる道がある。ここがこの坂と思われるが、この道に「此辺アケホノノ里ト云」とある。近江屋板には坂マーク△があり、境内に「此辺明保野里ト云」とある。江戸名所図会に根津権現社の挿絵があるが、そこに当社の境内を曙の里という、とある。これらから、このあたりを曙の里といったらしいが、その由来などは不明である。明治地図(明治四十年)を見ると、本駒込駅の近く本郷通りの西側を駒込曙町といったが、これと関係はなさそうである。また、西片二丁目に曙坂という石段坂があり、ここから本駒込よりも近いが、関係がなさそうである。

この坂は、江戸切絵図などから遅くとも江戸後半にはできていたが、そのようにいつから呼ぶようになったか不明である。『御府内備考』を見ても、この坂は書上にもなさそうで、根津権現の裏門にあることが坂名の由来であることは確かであるが、その歴史がちょっとよくわからない。

根津裏門坂上側 根津裏門坂上 根津裏門坂上 ところで、根津裏門というと、藤澤清造「根津権現裏」を思い浮かべてしまう。藤澤清造(明治22年(1889)-昭和7年(1932))は、石川県生まれの小説家で、最近までほとんど知られていなかったが、藤澤に傾倒した昭和42年(1967)生れの小説家西村賢太が復活させた。

しかし、大正11年(1922)発表の「根津権現裏」には、このあたりの描写がほとんどないばかりか、その中に出てくる下宿屋がどこなのかもはっきりしない。権現裏とあるからには、この坂の近くであることは間違いないと思われるが。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸名所図会(五)」(角川文庫)
藤澤清造「根津権現裏」(新潮文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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