東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

白山坂(薬師坂)

2012年04月19日 | 坂道

白山坂上 白山坂上 白山坂上 白山坂下 前回の大円寺から旧白山通りにもどり右折し、ちょっと北へ歩くと、白山上の交差点であるが、ここが白山坂(薬師坂)の坂上である。

一~三枚目の写真は坂上から撮ったもので、この坂は広い通りで緩やかに南へまっすぐに下っている。坂下から撮った四枚目からもわかるが、そんなに長い坂ではない。坂下の先は白山通りで、その交差点ちょっと手前を左折すると、前回の浄心寺坂である。

坂中腹付近に坂標識が立っていて、次の説明がある。

「薬師坂(薬師寺坂、浄雲寺坂、白山坂)  白山一丁目と五丁目の間
 『妙清寺に薬師堂有之候に付、里俗に薬師坂と相唱申候』(『御府内備考』)坂上の妙清寺に薬師堂があったので、薬師坂と名づけられた。また、坂下に浄雲院心光寺があったので、浄雲寺坂とも呼ばれた。また近くに白山神社があり、旧町名が白山前町で、白山坂ともいわれるなど、別名の多い坂の一つである。
 『新撰東京名所図会』には、「薬師堂は、土蔵造一間半四面。「め」の字の奉額、眼病全快者連名の横額あり」、と明治末年の姿を記している。
 このお薬師は特に眼病に霊験あらたかであったようである。土蔵造は、江戸の防火建築で、湯島本郷辺の町屋が土蔵塗屋づくりを命じられたのは、享保15年(1730)の大火後である。現存するものに無縁坂の講安寺本堂がある。
   文京区教育委員会  平成14年3月」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 白山坂下 白山坂下 江戸名所図会 白山権現 一枚目の尾張屋板江戸切絵図小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図には、大円寺(大圓寺)から出て、北へ進んだところの五差路を左折した道に、多数の横棒からなる坂マークが描かれている。近江屋板には△の坂マークがある。坂上から見て、右側に白山権現があり、そのわきに別名の由来となった浄雲寺がある。御江戸大絵図(天保十四年(1843))にもこの道筋が見える。

この坂は、上記の説明板にもあるが、『御府内備考』(文政十二年(1829))の白山前町の書上に次のように説明されている。

「一坂 長さ七間半、巾貳(に)間
右当町北の方に有之候、尤同所妙清寺に薬師堂有之候に付里俗に薬師坂と相唱申候、」

上記に長さが七間半(13~14m)とあるように、当時から短い坂であったようである。

四枚目は『江戸名所図会』にある小石川白山権現社の挿絵の右半分である。下が裏門で、上の方に表門が描かれており、表門から出たところにあったこの坂は描かれていないが、のどかな雰囲気が伝わってくる。

現在は、坂の途中に地下鉄都営三田線の白山駅の出入口があるため、人通りも多くにぎやかな通りである。坂上を東へ谷中方面に進むと、森鷗外の住んだ観潮楼のあった団子坂に至る。この坂が鷗外の短篇小説『田楽豆腐』に次のようにでてくる。

「木村は白山の坂を降りて右へ曲がった。盲学校のある丘陵を一つ踰(こ)えれば植物園の歴史的の黒い門のある町に出る。」

主人公は、団子坂からこの坂まで来て下り、坂下の先を右折して、小石川植物園まで行った。この間に、蓮華寺坂を上り、御殿坂(富士見坂)を下っているはずである。この植物園あたりまでも鷗外の散歩コースであったのであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「鷗外選集 第三巻」(岩波書店)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大円寺・ほうろく地蔵 | トップ | 伊賀坂 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

坂道」カテゴリの最新記事