東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

蓮華寺坂

2012年04月23日 | 坂道

蓮華寺坂上 蓮華寺坂上 蓮華寺坂上 蓮華寺中腹 前回の伊賀坂上を北へ進むと、広い通り出るが、ここを右折すると蓮華寺坂の坂上付近である。一枚目の写真は、そこを左折しちょっと上ったところから坂下を撮ったもので、伊賀坂からの道が右に写っている。二~四枚目からもわかるように、左に緩やかカーブして東へ下っている。勾配は坂上側で緩やかで、中腹のあたりで中程度といったところである。

坂下の白山下の信号で白山通りと交差し、一方、坂上を進むと、御殿坂(富士見坂)の坂上である。坂南側に蓮華寺があり、これが坂名になっている。別名、蓮花坂、御殿裏門坂(横関)。

坂下に坂標識(下四枚目の写真に裏面が写っている)が立っていて、次の説明がある。

「蓮華寺坂(れんげじざか)   文京区白山二丁目と四丁目の間
 「蓮華寺即ち蓮花寺といへる法華宗の傍なる坂なればかくいへり。白山御殿跡より指ヶ谷町の方へ出る坂なり」と改撰江戸志にある。
 蓮華寺は、天正15年(1587)高橋図書を開基、安立院日雄を開山として創開した寺院で明治維新までは、塔頭(たっちゅう)が六院あったという。
 なお、この坂道は小石川植物園脇の御殿坂へ通じ、昭和58年(1983)にハナミズキやツツジが植栽され、春の開花、秋の紅葉が美しい並木道である。
   文京区教育委員会  平成12年3月」

蓮華寺坂中腹 蓮華寺坂中腹 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御大江戸絵図(天保十四年) 中腹から坂下をみると、一枚目の写真のように、広い白山通りとの交差点が見えるが、さらにその先の交差点を右折すると浄心寺坂方面で、やや左に曲がって進むと、白山坂(薬師坂)である。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図に蓮華寺があり、その右(北側)の道筋がこの坂で、その上(西側)が伊賀坂上からの道である。この道が上一枚目の写真の右に写っている。近江屋板(嘉永三年(1850))も同様で、坂マーク△がある。(尾張屋板江戸切絵図の東都駒込辺絵図には、「レンゲジザカ」とある。)

四枚目の天保十四年(1843)の御江戸大絵図の部分図には「レンゲシ」とあり、そのわきの道がこの坂である。坂上の先に、「コテンサカ」と多数の横棒からなる坂マークとともに御殿坂が示されている。

蓮華寺坂中腹 蓮華寺坂下 蓮華寺坂下 蓮華寺坂下 坂下の横断歩道は、中腹からの勾配がそのまま続いた感じで、白山通りで平坦になっているが、その先の道でちょっと下り気味なので、むかしはもっと長めの坂であったのかもしれない。

この坂は、上記の標識のように『改撰江戸志』に説明があり、江戸から続く坂である。この改撰江戸志の説明は、『御府内備考』(文政十二年(1829))の「小石川之一」の総説で引用されている。また、蓮花寺門前町の書上には、次のような説明がある。

「一坂 長さ六十町、巾貳(貳)間余
 右同寺裏門より西の方白山大道通え通路致候坂にて、里俗蓮花寺坂と唱申候、」

白山大道通とは、同寺の裏門より西に方とあるので、御殿坂の方かもしれない。伊賀坂の説明にもあったが、この蓮華寺坂と同様に解すべきか。

白山坂(薬師坂)の記事で引用した森鷗外の短篇『田楽豆腐』の「木村は白山の坂を降りて右へ曲がった。盲学校のある丘陵を一つ踰(こ)えれば植物園の歴史的の黒い門のある町に出る。」にある、この丘陵とはこの坂のある白山台地で、これを超えたとあるので、この坂を上ったのであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「鷗外選集 第三巻」(岩波書店)

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