今回の坂巡りは、文京区西片・白山の坂であるが、左の街角案内地図のように、新坂(福山坂)、石坂、曙坂、胸突坂、中坂、浄心寺坂などを巡った。
それから、さらに北側にある薬師坂や暗闇坂、また、白山通りの西側の伊賀坂、蓮華寺坂、逸見坂などにも行き、その後、網干坂を下った。
これらを訪れたのは、一年以上前で、ちょうど三月十一日の大震災の一ヶ月ほど前である。記憶は薄れてきているが、写真を見て思い出しながら記事にする。いまとなっては、3.11以前の記録ということで、なんか大事にしたいというように思ったからでもある。
蒟蒻閻魔(こんにゃくえんま)から東へ向かい、白山通りを横断し、そのまま菊坂下方面に進み、途中、左折すれば、石坂であり、ここからはじめる予定であったが、道を一本勘違いし、白山通りの歩道を北へ歩いてしまった。途中で気がついたが、そのまま、進み、右の道に入り、次の四差路で右折すると、一、二枚目の写真のように、新坂の坂下である。
文京区白山一丁目と西片一丁目との境を西片二丁目へ上る坂で、別名が福山坂。
坂下からほぼ東へ上りながら右へ緩やかなカーブを描いて上り、それからほぼまっすぐに南へ上ってから、こんどは、左へ曲がりながら東向きになって坂上へと至る。勾配は坂下側でちょっときついが、次第に緩やかになる。
ほぼ南北に延びる本郷台地の中央に発達した谷で、現在、白山通りが通っている低地と、その東側の台地とを結ぶ坂で、谷から台地へ直登するのではなく、崖下を横切るようにしだいに高度を上げている。このあたりのことを、永井荷風は『日和下駄』「第九 崖」で次のように書いている。
「小石川春日町から柳町指ヶ谷町へかけての低地から、本郷の高台を見る処々には、電車の開通しない以前、即ち東京市の地勢と風景とがまだ今日ほどに破壊されない頃には、樹や草の生茂った崖が現れていた。」
一~四枚目の写真のように、坂下から曲がり、その後、崖下の中腹では、ほぼまっすぐに上るが、その途中に、一、二枚目のように、文京区の坂標識が立っていて、次の説明がある。
「新坂(福山坂)
『新撰東京名所図会』に、「町内(旧駒込西片町)より西の方、小石川掃除町に下る坂あり、新坂といふ」とある。この坂上の台地にあった旧福山藩主の阿部屋敷に通じる、新しく開かれた坂ということで、この名がつけられた。また、福山藩にちなんで、福山坂ともいわれた。新坂と呼ばれる坂は、区内に六つある。
坂の上、一帯は、学者町といわれ、夏目漱石はじめ多くの文人が住んだ。西側の崖下一帯が、旧丸山福山町で、樋口一葉の終焉の地でもある。
東京都文京区教育委員会 昭和63年3月」
この坂は、尾張屋板江戸切絵図を見てもなく(近江屋板も同じ)、明治になってから開かれた新坂のようであるが、明治四十年(1907)の明治地図を見ると、おもしろいことがわかる。当時の坂は、いまの坂下側がなく、一本南側の道を東へ上り、北へ曲がってから、いまの標識のちょっと下側あたりで坂の中腹につながっていた。このため、このつながり部分では、やや北向きからやや南向きに急激に曲がっていて、特徴ある道筋となっている。この坂下側の道は上の街角案内地図のように現存し、上三枚目の写真でちょうど人が歩いているところが、旧道筋とのつながり部分である。
戦前の昭和地図(昭和16年)を見ると、現在と同じ道筋となっているので、現在の坂下側は、この間に開かれたものと思われる。
ということで、上記の坂下の別の道筋を含めた坂が、本来の新坂というべきかもしれない。ここは歩かなかったので、いずれまた歩いてみたい。
一枚目の写真のように、坂上側で、左へカーブしながら東へ向きを変えて緩やかに上っているが、四枚目のように、坂上でもう一度左にちょっと曲がっている。
新坂というのは、東京には多い坂名で、横関によれば、維新後、明治になってからできた新坂はたくさんあるが、その地の人々は、人まねの新坂という名を捨ててしまって、もっとよい名をつけたがり、この新坂も福山坂と改名した、としている。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)