東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

新坂~暗坂

2011年02月02日 | 坂道

新坂下 新坂下 新坂上 新坂上標柱 曙橋を南へと渡り、左折すると、さらに左折する道がなく、そのまま歩くと、津の守坂下に出てしまった。左折し、靖国通りの手前を左折すると、昭和の雰囲気を残しているが少々寂れた通りが西へ続いている。曙橋の陸橋下を通り抜けるとやがて左手に新坂が見えてくる。右手は靖国通りである。坂下からまっすぐに上っている。

この坂は、以前に記事にしたが、そのときは坂を上らず、坂下から暗闇坂を目指した記憶がある。

この坂は、傾斜が終わった先がほぼ平坦になって外苑東通りまで続き、その手前に標柱が立っている。このため上右の写真のように坂上から離れたところに標柱がある。標柱には次の説明がある。

『荒木町と舟町との境を北へ靖国通り手前までくだる坂である。この坂は、全勝寺の地所を削って新しくできたので、新坂と称した。新撰東京名所図会に「全勝寺は・・・大門長くして杉樹連なりしを以て俗に杉門と呼べり、今は杉樹は伐採し、其の道は新道に通じ直に市谷に達せり」と記している。』

新坂上標柱 全勝寺門前 西迎寺門前 養国寺門前 この新坂を横関は「・・・昔の杉大門通りにつづく坂で、坂の両側は切通しになっている。絵図を見ると、昔この坂のできる前は、この辺り一帯は全勝寺の寺内であった。」と説明する。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、いまの新宿通りからまっすぐに北へ全勝寺まで延びる道があるが、近江屋板には、この道に杉大門とある。江戸末期にはなかった坂で、明治になってからできた坂のようである(石川)。

坂東側の一部がコンクリート壁になっているが、これが切通しの名残と思われる。

坂から来て標柱の先を右折すると、全勝寺の門前である。門前に立つ説明板によれば、江戸時代中期の兵学者・尊王論者で有名な山形大貮の墓がある。宝暦六年(1756)江戸に出て家塾を開き、国学・兵学を教え、その門下生に吉田松陰などが出て、後に尊王論者の師と仰がれ、高く評価されるようになったとのこと。

門を左にして細い道を道なりに歩くと、西迎寺の門前である。境内に大きな阿弥陀如来座像がある。さらに歩くと、養国寺で、そのとなりが全長寺である。これらのお寺は江戸切絵図に見え、江戸から続く。

全長寺門前 暗坂上 暗坂上標柱 暗坂階段手前 全長寺の前を通り、突き当たりを右折すると、暗坂(暗闇坂)の坂上である。緩やかに下っており、やや左側に進むと、階段上に至るが、そこにも標柱が立っている。ここは、緩やかな傾斜と階段となった急な傾斜とからなる坂である。

ここも以前に記事にしたが、そのとき引用した永井荷風「日和下駄」の暗闇坂の部分を再掲する。当時のこの坂の様子がよくわかる。

「暗闇坂は車の上らぬほど急な曲った坂でその片側は全長寺の墓地の樹木鬱蒼として日の光を遮り、乱塔婆に雑草生茂る有様何となく物凄い坂である。」

尾張屋板江戸切絵図を見ると、全長寺のわきの道に、クラヤミザカ、とあり、そこから谷(現在の靖国通り)に下っていたようである。そこが現在、階段となっているところであろうか。

暗坂階段途中 暗坂階段下側 都内に同名の坂(暗闇坂・闇坂・暗坂)は他にもあり、これまで、新宿区須賀町の戒行寺坂上の先の円心寺わきを南へ下る闇坂、麻布十番通りから南へ一本松へと上る暗闇坂を記事にしたが、まだたくさんあるようである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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