東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

八幡坂~今宮神社

2011年02月08日 | 坂道

八幡坂中腹 八幡坂中腹 八幡坂中腹 八幡坂下 鷺坂上を直進するとまもなく階段のある坂下につく。まっすぐに上っている。左手を見ると、階段坂が下りとなって続いている。八幡坂である。左折し階段を下る。階段坂としては勾配はない方であるが、ちょっと長めに続いている。

坂下に説明板が立っており、次の説明がある。

「八幡坂
『八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍に下る坂をいふ。安政四年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と、東京名所図会にある。
 明治時代のはじめまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂とよばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。」

尾張屋板江戸切絵図を見ると、音羽通りの音羽町九丁目に田中八幡があり、そのわきから東へ延びる道があり、大日坂の坂上まで続いている。その途中に北へ延びる道があるが、ここに八幡坂とある。いまの坂の中腹から北へ上る階段のある坂道に対応すると思われるが、坂の中腹から直接東へ大日坂に延びる道はない。近江屋板もほぼ同様で、△八幡坂とある。

坂下を左折しちょっと歩くと今宮神社である。今宮神社の正面から音羽通りの向こうに目白新坂の坂下が見える。

今宮神社 今宮神社から目白新坂下 旧音羽川跡 湧水 今宮神社の前の細い道を南へ進んでみる。この道は旧音羽川跡と思われる。左側に高い石垣が続く道を進むと、石垣の下部から水がわずかに流れ出ていた。以前に東京の湧水の本(「東京の自然水124」)を記事にしたとき、ここの湧き水が印象に残っていたため、この道を進んでみたのである。水量は豊富でなく、涸れずにかろうじて流れ出ている程度である。

永井荷風は昭和11年(1936)元旦このあたりを訪れたことを「断腸亭日乗」に書いている。

「正月元日。晴れて風静なり。午頃派出婦来りし故雑司谷墓参に赴かむとする時、鷲津郁太郎来る。その後宮内省侍医局に出勤すると云ふ。日も晡ならむとする頃車にて雑司ヶ谷墓地に赴く。先考及小泉八雲、成島柳北、岩瀬鷗所の墓を拝し漫歩目白の新坂より音羽に出づ。陸軍兵器庫の崖には猶樹木あり荒草萋々たり。崖下の陋巷を歩むに今猶むかしの井戸の残りたるもの多く、大抵は板にて蓋をなしたり。されど徃年見覚えたる細流は既に埋められて跡なし。久世山に上る坂の麓に今宮神社の社殿神楽堂残りたり。社殿の格子に石版摺の選挙粛正の紙を貼りたり。殺風景もまた甚し。電車道を横断し音羽通西側の裏町を歩みしがこゝにもむかし流れゐたる溝川は埋められて跡もなし。たまたま不動阪の方へ上り行く小道の左側に石橋の欄干の残りたるを見出したり。日は既に暮れ果てしが電柱につけたる火影にてさくらばしと刻せし文字をよみ得たり。此石橋の左側は人家の間の路地より直に何とやら云ふ古寺の門前に出でそれより関口の公園につゞくなり。江戸川橋の上に佇立みて乗合自働車目白駅新橋間の来るを待つ。江戸川の流も今は不潔にて何の趣もなき溝渠となりたれど、夜になりてあたり暗ければ水声の淙々たるを聞くのみ。此の水声をきけばわが稚けなかりし頃のことも自ら思出されてなつかしき心地す。新橋停車場裏にて車より降り酒肆金兵衛に入り屠蘇三杯を傾け夕餉を食して家にかへる。燈下英国公使アルコツクの江戸滞在記を読む。」

八幡坂下 八幡坂下 八幡坂中腹 八幡坂中腹上 この年の元日、荷風は、午後遅く、車で雑司ヶ谷墓地に行き、先考(亡き父)及小泉八雲、成島柳北、岩瀬鷗所の墓を拝し、ぶらぶらと散歩しながら目白の新坂より音羽に出た。陸軍兵器庫とは、現在のお茶の水女子大学の西の方であろうか。その崖には樹木があり荒草が茂っていた。崖下の陋巷を歩んだとあるが、旧音羽川跡の小路と思われる。ここにむかしの井戸が多く残り、板で蓋をしていた。徃年見覚えたる細流とは音羽川のことであろう。

久世山に上る坂の麓に今宮神社の社殿神楽堂残りたり、とあるように、この今宮神社まで来た。久世山に上る坂とは、この八幡坂であろう。ここから電車道を横断し音羽通西側の裏町を歩いたが、ここの川(弦巻川)も埋められていた。不動阪の方へ上り行く小道の左側に石橋の欄干の残りたるを発見したが、そこにさくらばしと刻まれていた。不動阪とは目白坂のことと思われる。

なお、はじめに、目白の新坂より音羽に出た、とあるが、これは現在の目白新坂ではなく、位置的には不忍通り(清戸坂)のあたりを指しているような気がするがどうであろうか。

八幡坂中腹上 八幡坂中腹上 八幡坂上 八幡坂上 話をもとにもどし、湧水のところを直進し左折すると、鷺坂下にでることになるので、八幡坂下に引き返す。階段坂を上り、坂の中腹にもどる。 坂の中腹から上るが、ここは階段よりもスロープの方が広くなっている。坂上近くに「八幡坂」と大きく記した標識が立つ。

切絵図にある田中八幡は日輪寺境内にあった氷川神社と合併して明治二年(1869)服部坂上の小日向神社となった。その跡地に移ってきたのが、もと護国寺内にあった今宮神社で、明治維新の神仏分離令のためであるという(岡崎)。八幡宮は移っても坂名だけは残ったということらしい。

石川啄木下宿跡 八幡坂上 坂上の左側に、石川啄木初の上京下宿跡の説明板がある(音羽一丁目6)。明治35年(1902)11月1日に単身上京し、旧小日向台町の中学時代の先輩の下宿先を訪ね、翌日、ここにあった下宿に移ったとのこと。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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江戸川橋~鷺坂

2011年02月07日 | 坂道

文京区の小石川台地へ南から北へ上る坂を巡った。主に春日通りの南の坂である。このあたりは坂が多く、名坂の宝庫で、しかも永井荷風生誕の地である。

江戸川橋から神田川 江戸川公園入口 神田川から江戸川橋 目白坂下 午後有楽町線江戸川橋駅下車。

1a出口から出ると、すぐに神田川にかかる江戸川橋である。上に首都高速道路が通っている。橋のたもとに旧町名案内が立っていて、このあたりは旧関口水道町である。その案内に水道町のいわれが次のようにある。

「江戸時代に水番所があり、大洗堰の神田上水の水門の差蓋揚卸の役を務めていた。上水の管理運営にあたる人が住んでいたので、水道町の町名ができたといわれる。」

神田川を眺めながら渡ると、江戸川公園の大きな石碑が立っている。石碑のわきを通って首都高速道路の下を進むと、目白坂の坂下にでる。ここは昨年暮れに訪れた。そのときは目白台地の坂を巡ったが、目白台地は、東は音羽通りの音羽谷で終わり、そこから小石川台地である。

鷺坂遠景 鷺坂下 鷺坂下 鷺坂下 目白坂下を背にして進むと大きな通りの向こうに鷺(さぎ)坂が見える。ここは、以前に訪れて記事にしたが、そのときは、鼠坂の坂上から八幡坂の坂上に出て、その坂の中腹から鷺坂上に出たのであった。

目白坂下南の横断歩道を渡り、直進すると、鷺坂の坂下である。この坂は、ちょっと勾配があるが短く、まっすぐに上って左に大きく曲がってから、さらに緩やかに上っている。その先は、階段坂(八幡坂)に出て行き止まりになるからなのか、車が通らず、いつ来ても静かである。坂下から見て左側に石垣が続き、落ち着いた雰囲気をつくっている。

歴史的に古い坂ではないようだが、そんなことにかかわりなく、わたしの好きな坂の一つである。

鷺坂途中 鷺坂中腹から坂下 鷺坂中腹から坂下 鷺坂石柱・説明板 坂を上った正面に文京区教育委員会の説明板が立っており、その前に石柱があり、鷺坂と刻まれている。説明板には次のような説明がある。

『鷺坂  小日向二丁目19と21の間
 この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。 この久世山も大正以降は住宅地となり、堀口大学(詩人・仏文学者 1892~1981)やその父で外交官の堀口九万一(号長城)も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。
 足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は堀口九万一による。一面には万葉集からの引用で、他面にはその読み下しで「山城の久世の鷺坂神代より春ハ張りつゝ秋は散りけり」とある。
 文学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。』

鷺坂石柱右側面 鷺坂石柱左側面 鷺坂中腹から坂上 鷺坂中腹から坂上 鷺坂上側から 尾張屋板江戸切絵図を見ると、江戸川橋の先から北へまっすぐに音羽通りが護国寺へと延びているが、江戸川橋を北へ渡るとすぐに右折する道があり、そのあたりが音羽町九丁目で、その先が久世大和守の屋敷である。この屋敷の表門は大日坂に面している。江戸末期には鷺坂はないことがわかる。この道を横断するように北から流れ江戸川に注ぐ川があるが、これが音羽川と思われる。

明治地図でも江戸末期同様に道が行き止まりで、鷺坂はまだなく、音羽川が流れている。戦前の昭和地図を見ると、現在と同様の道筋ができており、鷺坂は、説明板のように、大正以降にできたのであろう。

野口富士男「私のなかの東京」(中公文庫)に、「鷺坂の名は久世山に住んでいた堀口大学や、附近に住んでいた佐藤春夫、三好達治らが、たわむれに万葉集の「山城の久世の鷺坂」と結びつけたものだという。つまり、江戸の坂ではなくて東京の無名坂の一つであったものだが、・・・」とある。

佐藤春夫は、目白新坂の近く七丁目坂付近の小石川区関口町207番地に住んでいたが、三好達治は、昭和11年(1936)5月から関口町206番地に住んだとあるので、二人はすぐ近くに住んでいた。この坂までも歩いて10~15分程度と思われ近くである。

鷺坂上側から 鷺坂上 鷺坂上・無名坂下 無名坂上 坂名は、上記のように、堀口大学、三好達治、佐藤春夫らによってつけられたものらしく、こういった由来を持つ坂名も珍しいが、それ相応に当時から好ましい雰囲気のある坂であったのであろう。

坂上につくと、そこから右にさらに上る坂がある。無名の坂であるが、そこを直進すると大日坂にいたり、この坂上一帯が久世山であったと思われる。(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「三好達治詩集」(岩波文庫)

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禿坂~瓶割坂

2011年02月05日 | 坂道

禿坂下側標柱 禿坂下側標柱の先 禿坂児童遊園手前 禿坂児童遊園先 自証院坂上を進み、次を左折すると、富久小学校のわきを下る坂となる。坂下で横道に出るが、すぐ近くに禿坂(かむろざか)の標柱が立っている。この坂はかなり長い坂で、この標柱の立っているところが坂下か不明であるが、このあたりがたぶん坂下であろう。反対側に進むとやがて靖国通りの富久町の交差点に出る。とりあえず、標柱から西の坂上を目指すが、写真はこの順に並んでいる。

この標柱のあたりはほぼ平坦で、大きく左へカーブしている。カーブした先の西富久児童遊園のあたりから緩やかな上りとなり、ほぼまっすぐに続いている。坂上側で少しうねっているところがよい。

坂上北側に東京医科大学の門があり、この通りは、医大通り商店街ともいうが、やや寂れた感じがする。

禿坂上側 禿坂上側標柱 禿坂上 禿坂上 標柱には次の説明がある。

「坂名の由来はさだかではないが、近吾堂版の『江戸切絵図』(大久保戸山高田辺之図)には『里俗カムロ坂』とあり、江戸時代後期には「かむろざか」と呼ばれていたことがうかがえる。」

近江屋板(=近吾堂版)江戸切絵図を見ると、自證院の門前とあり、ここの道が半円弧状になって、その右側の先がまっすぐに西へと延びているが、この道に、標柱の説明のように、△里俗カムロ坂、とある。半円弧状の左の道は源慶寺の前の通りで、茗荷坂の坂下に至る。尾張屋板にも同様の道筋があるが、坂マークも坂名もない。

明治地図には、成女学校の西側から北西へ延びる細い道があるが、ここが現在の禿坂となる道と思われる。坂上北側が東京監獄で、その東側一帯が市谷監獄であり、かなりの広い敷地であったことがわかる。

横関は禿坂とよばれる坂が都内に七つあったとし、そのうちの一つがこの坂である。禿とは、髪を短く切りそろえた子供をいうが、いわゆるおかっぱである。横関によれば、「おかっぱ」は河童のような髪形のことで、頭の天辺を丸くそり、周囲の髪を短くそろえて切った女の子の髪の形をいったが、禿とは河童のことであるとする。河童が大入道になったり、かわいい女の子の姿になったり、いろんな化け物になって人にいたずらしたので、その化けた場所が坂なら、その坂を禿坂といい、橋なら禿橋、屋敷なら禿屋敷、路上なら禿横町とか禿小路などとよんだ。

禿坂上側標柱 禿坂途中 禿坂下側標柱 禿坂下側 上記のように、横関説によれば、禿坂とは、河童が禿などになって化けてでた坂であるが、この坂もそんな伝説があったのであろうか。また、坂の付近には、きまって古池や川などのある、寂しいところの坂であったとしているが、ここにそんな池や川があったのであろうか。

「東京23区の坂道」に、以前の標柱の説明文がのっているので、以下に引用する。

「昔、この坂下の自証院の横に小さな池があり、水遊びにくる禿頭(おかっぱを短く切りそろえたような髪型)の童たちの姿が見られたことから禿坂と呼ばれるようになった。」

池または川があることは、河童禿伝説の基本のようであるので、この要件を満たしている。現在の標柱の説明文とかなり異なるようであるが、なぜいまのように変えたのであろうか。

岡崎は、この坂を蜘蛛切坂とし、別名を禿坂としている。その由来は渡辺綱の土蜘蛛退治に因むという。また、『御府内備考』の「自證院門前」に「一石橋 二ヶ所巾一間宛長三尺程宛 右町内中程ニ有之候尤掛渡年代相知不申町内持ニ御座候」とあることから、自証院門前に川が流れており、この川に河童が住むといわれたのであろうと推測している。

標柱のある坂下に戻り、そのまま東へ歩き、富久町の交差点にふたたび出て右折し安保坂を上る。

富久町西交差点から西側 富久町西交差点から西側 西側から富久町西交差点 左二枚の写真は安保坂上の富久町西交差点で西側の靖国通りを撮り、右はその先からこの交差点を撮ったものである。ここから新宿五丁目にかけて、瓶割坂という坂があったらしいが、そのような痕跡がなかなか見つからない。

横関によれば、大田南畝『一話一言』巻四十二に、「大久保久能町かめわり坂〔俗名〕の東、四谷自証院の西に霊亀山東長寺という禅寺あり・・・・・・」とあるという。このことから、かめわり坂は、源慶寺と東長寺との間の茗荷坂の頂上から、さらに西へ下る坂路であるとするが、上記の写真からわかるように、現在、茗荷坂の頂上から富久町西交差点を西側に渡ると、そこは、よく見るとむしろ、西へわずかに上るような道路になっている。

かめわり坂の由来としてなんと義経伝説に行きつきそうな説明があるが、これはあくまで伝説で、しかもかなり願望が込められたものであるとのこと。

このまま靖国通りを西へ進み、新宿三丁目駅へ。

今回の携帯による総歩行距離は9.8km。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第三巻」(雄山閣)

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安保坂~自証院坂

2011年02月04日 | 坂道

安保坂上 安保坂上 安保坂下 安保坂下 茗荷坂上を右に進むと、靖国通りと外苑西通りとの交差点で、外苑西通りはここが終点である。この交差点から靖国通りを富久町の交差点まで下る坂が安保坂である。靖国通りの広い通りが緩やかにカーブしながら東へ下っている。勾配は中程度といったところ。この坂の南側に茗荷坂の記事ででてきた源慶寺がある。

写真は交差点を北側に渡ってから撮ったものである。交通量が多いので、車が途切れるまで待つ必要がある。

ここは昭和の新坂で、坂名は安保清種(あぼきよかず)・海軍大臣が住んでいたことにちなむという(山野)。

靖国通りは、坂下の富久町の交差点から上ると、ほぼそのままの高度で西へと新宿区役所前方面に至るので、この坂下が市谷八幡町あたりから続く谷(低地)の終わりのようである。

自証院坂下 自証院坂下 自証院坂上 自証院門前 坂下からそのまま東へ少し歩き一本目を左折すると、自証院坂の坂下である。まっすぐに南へ上っており、ちょっと勾配がある。坂を上ると、坂上右側に自証院(自證院)の門前が見える。

尾張屋板江戸切絵図(牛込市谷大久保絵図)を見ると、自證院が大きく描かれ、「自證院 俗ニ コブ寺ト云」とある。しかし、現在の坂と対応する道がわからない。自證院の敷地はいまよりもかなり広かったらしく、源慶寺と道を挟んで接している。そして、前回の茗荷坂下からまっすぐに東へ延びる道があり、これに沿って自證院の敷地が続いている。近江屋板もほぼ同様である。この東に延びる道を現在の靖国通りと考えると、現在、自証院坂とする坂は、自證院の敷地内になってしまう。

明治地図を見ると、靖国通りから北への道があり、坂上が自証院でほぼ行き止まりである。戦前の昭和地図では現在とほぼ同じになっている。

上記のように、この坂が江戸時代から続くものか不明である。横関と石川は、この坂を取りあげていないが、このあたりのことが理由であろうか。

『江戸名所図会』に鎮護山自証院が次のようにある。市谷の西の方、道より右側にある(土俗、ここを饅頭谷という)。円融寺と号する。天台宗にして東叡山に属す。尾張藩主徳川光友の夫人千代姫(家光の次女)母(側室お振の方)の菩提のために開創された。世に、ふし寺・こぶ寺といわれるが、建物をことごとく種々の節やこぶのある木を集めて造立したので、こう云われる。

図会には自證院の挿絵もあり、広大な敷地が描かれているが、門前を通る道が現在の靖国通りに相当するところであろうか。

岡崎によれば、小泉八雲が坂西側の成女学園のあたりに、明治29年(1896)から35年に大久保に移るまで住んだとのことで、付近の風景を愛してよく散歩し、寺の住職とも懇意であったという。明治地図の注には、自證院の森が伐採されたことを嫌って引っ越ししたとある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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無名坂~茗荷坂

2011年02月03日 | 坂道

暗坂西側の道 愛住町12,13の無名坂下 暗坂の階段を下り、靖国通りの歩道で左折し、次を左折し進むと、うねりながら南へ道が延びている。ちょうど暗坂の道の西側一本目の道で、浄運寺、法雲寺、正応寺の西側を通って新宿通りまで延びている。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、暗坂下から南へ延びる別の道があり、途中曲がりながらいまの新宿通りに至るが、上記のお寺の西側を通るので、この道は暗坂の道とともに江戸時代から続く道のようである。新宿通りの近くに、湯ヤヨコ丁、とある。写真のように、うねっているので、むかしからの道と思ったが、そのとおりであった。

少し歩き、右手を見ると、細い坂道が西へ上っているが、おもしろいことに坂上が短い階段になっている。坂上が急なために階段としたのだろうか。この坂道へ進み上るが、坂上から東側遠方がちょっと見える。後で地図で確認すると、愛住町12,13番地の間の道である。この坂は無名のようであるが、頂上近くに階段があるユニークな坂である。

尾張屋板江戸切絵図に、この道に相当する道があるが、途中で行き止まりである。明治地図と戦前の昭和地図にはこの道があるので、明治になってから坂上がつながったのかもしれない。

愛住町12,13の坂上階段 愛住町12,13の坂上 無名坂先の階段下 無名坂先の階段下 無名坂の坂上を進み、突き当たりを右折すると、かなり細い階段の上にでる。この階段を下るが、途中何箇所か踊り場があって、まっすぐに下っている。階段の両側は建物や塀がせまっており、それがいっそう階段を狭く感じさせる。二枚の写真は途中振り返り、階段上側を撮ったものである。

明治地図と戦前の昭和地図を見ると、無名坂上の突き当たりから北へ延びる道があるが、この階段に相当する道と思われる。

階段下は、靖国通りの南裏側の道で、ここを左折し、西側に進む。

茗荷坂下 茗荷坂下 茗荷坂標柱 ちょっと広めの道路に突き当たるが、右折すると、靖国通りの富久町の交差点である。この広めの道路を横断し、左折し、少し進み一本目を右折すると、茗荷坂の坂下である。中程度の勾配でまっすぐに西へ上っているが、坂上側で緩やかに左にカーブし勾配も緩やかになっている。

坂をちょっと上ったところに標柱が立っているが、かなり古くなっていて(平成三年建立)、説明文が判別しにくくなっている。おまけに、説明文のある面が塀側をむいている。新しくするとき、説明文はせめて横の面にしてほしいものである。このため、「東京23区の坂道」を参考にして標柱の説明文を掲載する。

「江戸時代まで、この坂は源慶寺と東長寺に沿って市谷村の茗荷畑であったためこう呼ばれた。」

尾張屋板江戸切絵図(牛込市谷大久保絵図)を見ると、自証院から南へ延び源慶寺の前を通る道にミヤウカ坂とあり、この道が西へ折れ曲がって東長寺の前を通っているが、この折れ曲がり後の道が現在の坂道と対応すると思われる。近江屋板にも源慶寺と東長寺との間の道に坂マーク(△)がありミヨウガ坂とある。

『御府内備考』に、「一坂 登凡貮丈程 右者東長寺表門脇町屋横通り源慶寺との間ニ有之里俗茗荷坂と相唱申候」とあり、江戸切絵図が示す道筋と説明があっている。

茗荷坂上 茗荷坂上 源慶寺と東長寺は現在もあり、東長寺が茗荷坂の南側にあり、写真にも写っている。

石川は、この坂下をむかしは茗荷谷と称し、茗荷をつくったところから坂名がおこっているとし、土地の古老の談として、むかしの茗荷坂は車の後押しに大汗をかく急坂で、源慶寺の樹立と東長寺の乱塔婆(墓場)に囲まれたものすごく寂しい坂だったことを紹介している。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第三巻」(雄山閣)

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新坂~暗坂

2011年02月02日 | 坂道

新坂下 新坂下 新坂上 新坂上標柱 曙橋を南へと渡り、左折すると、さらに左折する道がなく、そのまま歩くと、津の守坂下に出てしまった。左折し、靖国通りの手前を左折すると、昭和の雰囲気を残しているが少々寂れた通りが西へ続いている。曙橋の陸橋下を通り抜けるとやがて左手に新坂が見えてくる。右手は靖国通りである。坂下からまっすぐに上っている。

この坂は、以前に記事にしたが、そのときは坂を上らず、坂下から暗闇坂を目指した記憶がある。

この坂は、傾斜が終わった先がほぼ平坦になって外苑東通りまで続き、その手前に標柱が立っている。このため上右の写真のように坂上から離れたところに標柱がある。標柱には次の説明がある。

『荒木町と舟町との境を北へ靖国通り手前までくだる坂である。この坂は、全勝寺の地所を削って新しくできたので、新坂と称した。新撰東京名所図会に「全勝寺は・・・大門長くして杉樹連なりしを以て俗に杉門と呼べり、今は杉樹は伐採し、其の道は新道に通じ直に市谷に達せり」と記している。』

新坂上標柱 全勝寺門前 西迎寺門前 養国寺門前 この新坂を横関は「・・・昔の杉大門通りにつづく坂で、坂の両側は切通しになっている。絵図を見ると、昔この坂のできる前は、この辺り一帯は全勝寺の寺内であった。」と説明する。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、いまの新宿通りからまっすぐに北へ全勝寺まで延びる道があるが、近江屋板には、この道に杉大門とある。江戸末期にはなかった坂で、明治になってからできた坂のようである(石川)。

坂東側の一部がコンクリート壁になっているが、これが切通しの名残と思われる。

坂から来て標柱の先を右折すると、全勝寺の門前である。門前に立つ説明板によれば、江戸時代中期の兵学者・尊王論者で有名な山形大貮の墓がある。宝暦六年(1756)江戸に出て家塾を開き、国学・兵学を教え、その門下生に吉田松陰などが出て、後に尊王論者の師と仰がれ、高く評価されるようになったとのこと。

門を左にして細い道を道なりに歩くと、西迎寺の門前である。境内に大きな阿弥陀如来座像がある。さらに歩くと、養国寺で、そのとなりが全長寺である。これらのお寺は江戸切絵図に見え、江戸から続く。

全長寺門前 暗坂上 暗坂上標柱 暗坂階段手前 全長寺の前を通り、突き当たりを右折すると、暗坂(暗闇坂)の坂上である。緩やかに下っており、やや左側に進むと、階段上に至るが、そこにも標柱が立っている。ここは、緩やかな傾斜と階段となった急な傾斜とからなる坂である。

ここも以前に記事にしたが、そのとき引用した永井荷風「日和下駄」の暗闇坂の部分を再掲する。当時のこの坂の様子がよくわかる。

「暗闇坂は車の上らぬほど急な曲った坂でその片側は全長寺の墓地の樹木鬱蒼として日の光を遮り、乱塔婆に雑草生茂る有様何となく物凄い坂である。」

尾張屋板江戸切絵図を見ると、全長寺のわきの道に、クラヤミザカ、とあり、そこから谷(現在の靖国通り)に下っていたようである。そこが現在、階段となっているところであろうか。

暗坂階段途中 暗坂階段下側 都内に同名の坂(暗闇坂・闇坂・暗坂)は他にもあり、これまで、新宿区須賀町の戒行寺坂上の先の円心寺わきを南へ下る闇坂、麻布十番通りから南へ一本松へと上る暗闇坂を記事にしたが、まだたくさんあるようである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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幻の新五段坂

2011年02月01日 | 坂道

市谷片町のあたりの坂として新五段坂というのがときどきでてくる。たとえば、新宿区HPにある散策マップ(市ヶ谷コース)では、前回の合羽坂の坂上を右折した外苑東通り北側の上り坂が新五段坂となっている。「東京23区の坂道」、「大きな字の地図で東京歩こう」(人文社2004年4月発行)、「文庫地図 東京」(昭文社)の2011年版も同じである。しかし、山野はこの坂を取りあげず、横関と岡崎は現存しない坂とし、石川は別の位置を示している。

合羽坂上から北側外苑東通り 写真は、合羽坂上から北側の外苑東通りの上り坂を撮って前回の合羽坂の記事にのせたもので、上記のいくつかの参考文献が新五段坂としている坂である。

新五段坂については参考文献によってかなり異なり、以前から疑問に思っていたので、今回、ちょっと調べてみた。

まず、『御府内備考』は次のように説明する。

「新五段坂片町の西境横町の坂なり此坂を新五段と呼べるものは昔尾張殿屋鋪邊に五段坂と唱へし坂あり又五段長屋とも稱せしよし江戸志等にも載たり然るに明和年中その邊多く尾張殿屋敷の圍込と成り當所に新坂を開かれしゆへ五段の古名を襲て新五段坂と唱へ始めしとなり。」

これによれば、片町の西境横町の坂で、もともと尾張屋敷の辺りに五段坂という坂や五段長屋があったが、明和年中にその辺りの大部分が尾張屋敷に囲い込まれたので、ここに新坂を開いたが、それを五段の名を継いで新五段坂としたのが始まりのようである。

さらに『御府内備考』の片町の書上に次のようにある。

「一坂 三ヶ所 右壹ヶ所は當町上町西境横町ニ有之登り凡三十間程巾三間程有之新五段坂ト唱申候尤先年町内東の方當時尾州様御屋鋪邊ニ五段坂ト相唱候坂有之候由然ル處明和年中迄唯今の新五段坂並右坂上當時明地の邊に市ヶ谷大隅町松平淡路守様御屋鋪並外武家屋鋪有之候處御用地に被召上右跡明地尾州様屋鋪圍込ニ相成當時の坂新規出來仕候ニ付新五段坂ト里俗ニ相唱候旨申傳候壹ヶ所は右坂下通西の方え凡登り十五間程巾貳間程有之合羽坂と唱申候右は當町近邊東の方ニ蓮池と唱候大池有之右池中の獺雨天等の節は夜分坂近邊え出候處河童出候と其頃専ら風聞仕候ニ付自ら河童坂と唱候處後世合羽坂と書誤候由申傳候壹ヶ所は石坂ニて町内自身番屋前ニ有之登り一丈四尺程巾三尺程ニて町内崖下通路のため先年相願坂出來仕候由に御座候得共年月等相知不申候 但右石坂左右石垣土屋四郎次郎様地境より東の方え凡五十間四尺巾程高サ西の方一丈程中ニて五尺程東の方五寸程有之町内持ニ御座候尤起立年代相知不申候」

片町にあった坂三ヶ所(新五段坂、合羽坂、石坂)について説明している。合羽坂についてここでは新五段坂の坂下通りを西の方へ上る坂とし、前回の記事のように、「御府内備考」が別のところで「合羽坂は新五段坂の西の方にあり」としていることを考えると、新五段坂は合羽坂の東で、合羽坂は新五段坂の西で坂下通りを西へ上る坂となる。

横関は、「市ヶ谷尾張屋敷に囲い込まれた六つの坂」で、もと町の坂であったものが、大名屋敷の拡張とともに、その屋敷内に囲い込まれることがたびたびあったとし、たとえば、赤坂の紀州屋敷の場合、奥州街道の一地点であった誉田坂が紀州邸内に消えて、新しく鮫河橋坂ができた(以前の記事参照)。この坂が拡張された新屋敷の外囲を迂回してお堀端の紀伊国坂と接続する。要するに、それまでの街道が屋敷の中に囲い込まれたので、新屋敷の外を一めぐりしてもとの道につながれた。

同じことが市ヶ谷尾張屋敷にもおき、新五段坂もそのように囲い込まれた坂の一つであるというのである。ここの歴史を江戸以前にさかのぼって以下のように説明している。

現在、市谷本村町の防衛省があるところは、江戸末期に尾張藩上屋敷であったが、さらにむかし、八百年ほど前、紀州の一乗山伝法院根来寺の開山興教大師すなわち覚鑁(かくはん)上人(康治二年(1143)没)が関東下向のときの宿舎としてこの辺りの傾斜地に草庵を建て、これが覚鑁寺とよばれ、その前の坂みちが覚鑁坂と名づけられた。

天正二年(1574)に覚鑁坂と別のところにあった富士見坂の西脇の辺りに清光山林泉院安養寺というお寺が建立された。富士見坂は、安養寺の山号院号の意味から清水坂と改称された。

寛永三年(1626)、覚鑁坂も根来(ねごろ)坂と改称された。根来坂に長玄寺というお寺があったが、元麻布に移り、尾張屋板江戸切絵図にも見える(現在もあり、その前の坂が狐坂である)。

根来坂の覚鑁寺は、寛永十九年(1642)、牛込の根来組屋敷の地に移って、根来山東光院報恩寺と改称された。尾張屋板江戸切絵図に、根来百人組の屋敷に挟まれたようなところに報恩寺が小さくのっている。いまの新宿区原町一丁目緑雲寺に近いところであるという。

安養寺は、明暦二年(1656)になると、近くの市谷谷町(現住吉町)に移ったが、この年の八月に尾張藩の屋敷がここに移ってくることになっていたからである。移転後の安養寺は、尾張屋板江戸切絵図にも見え、現在もある(その近くの坂が安養寺坂である)。

このときの尾張屋敷には、五段長屋のある五段坂および大隅町までは含まれていなかった。しかし、明和五年(1768)五月二十五日、五段長屋、五段坂、大隅町一帯が尾張屋敷に囲い込まれた。このとき、五段坂とその西の合羽坂との中間に新たに平行にできた坂が新五段坂であったという。

『東京地理沿革誌』などは、四谷荒木町に津の守坂の他に新五段坂という坂があるような書き方になっているが、これについて横関は、五段坂と新五段坂の関係に触れていないことに大きな疑問を呈し、新五段坂は五段坂の代わりになる坂でなければならないとし、その根拠に上記の御府内備考の記載をあげている。なお、石川は『東京府志料』の同様の記載を根拠に荒木町にあった坂としている。

上記のように、五段坂と新五段坂と合羽坂は、この順に東から西へ並ぶ、平行した南から北へ上る坂であったという結論である。この結論からすれば、横関が合羽坂を上記の写真の曙橋の北端から外苑東通りを南へ上る坂を合羽坂とした理由がわかる。

さらに、尾張屋敷の三回目の囲い込みが寛政七年(1795)にあり、新五段坂も囲い込まれて消滅した。尾張屋敷が合羽坂を外囲いとするところまで拡大されたのは文政十一年(1828)以後のことであるという。

要するに、それまでの五段坂が尾張屋敷に囲い込まれたため、それと平行に新五段坂ができ、さらにその新五段坂も尾張屋敷に囲い込まれたということらしい。

上記のように江戸時代に尾張屋敷に囲い込まれた坂は、覚鑁坂、根来坂、富士見坂、清水坂、五段坂、新五段坂の六つであるという。現在、ここがどうなっているか外部からわからず、新五段坂はもはや幻の坂といってよいのであろう。

以上を考慮に入れて合羽坂を考えると、外苑東通りを北から南へと曙橋の方に下ってその手前で左折し東へ靖国通りまで下る坂としても、横関説からしても矛盾は生じないようである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第三巻」(雄山閣)

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