鷺坂上を直進するとまもなく階段のある坂下につく。まっすぐに上っている。左手を見ると、階段坂が下りとなって続いている。八幡坂である。左折し階段を下る。階段坂としては勾配はない方であるが、ちょっと長めに続いている。
坂下に説明板が立っており、次の説明がある。
「八幡坂
『八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍に下る坂をいふ。安政四年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と、東京名所図会にある。
明治時代のはじめまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂とよばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。」
尾張屋板江戸切絵図を見ると、音羽通りの音羽町九丁目に田中八幡があり、そのわきから東へ延びる道があり、大日坂の坂上まで続いている。その途中に北へ延びる道があるが、ここに八幡坂とある。いまの坂の中腹から北へ上る階段のある坂道に対応すると思われるが、坂の中腹から直接東へ大日坂に延びる道はない。近江屋板もほぼ同様で、△八幡坂とある。
坂下を左折しちょっと歩くと今宮神社である。今宮神社の正面から音羽通りの向こうに目白新坂の坂下が見える。
今宮神社の前の細い道を南へ進んでみる。この道は旧音羽川跡と思われる。左側に高い石垣が続く道を進むと、石垣の下部から水がわずかに流れ出ていた。以前に東京の湧水の本(「東京の自然水124」)を記事にしたとき、ここの湧き水が印象に残っていたため、この道を進んでみたのである。水量は豊富でなく、涸れずにかろうじて流れ出ている程度である。
永井荷風は昭和11年(1936)元旦このあたりを訪れたことを「断腸亭日乗」に書いている。
「正月元日。晴れて風静なり。午頃派出婦来りし故雑司谷墓参に赴かむとする時、鷲津郁太郎来る。その後宮内省侍医局に出勤すると云ふ。日も晡ならむとする頃車にて雑司ヶ谷墓地に赴く。先考及小泉八雲、成島柳北、岩瀬鷗所の墓を拝し漫歩目白の新坂より音羽に出づ。陸軍兵器庫の崖には猶樹木あり荒草萋々たり。崖下の陋巷を歩むに今猶むかしの井戸の残りたるもの多く、大抵は板にて蓋をなしたり。されど徃年見覚えたる細流は既に埋められて跡なし。久世山に上る坂の麓に今宮神社の社殿神楽堂残りたり。社殿の格子に石版摺の選挙粛正の紙を貼りたり。殺風景もまた甚し。電車道を横断し音羽通西側の裏町を歩みしがこゝにもむかし流れゐたる溝川は埋められて跡もなし。たまたま不動阪の方へ上り行く小道の左側に石橋の欄干の残りたるを見出したり。日は既に暮れ果てしが電柱につけたる火影にてさくらばしと刻せし文字をよみ得たり。此石橋の左側は人家の間の路地より直に何とやら云ふ古寺の門前に出でそれより関口の公園につゞくなり。江戸川橋の上に佇立みて乗合自働車目白駅新橋間の来るを待つ。江戸川の流も今は不潔にて何の趣もなき溝渠となりたれど、夜になりてあたり暗ければ水声の淙々たるを聞くのみ。此の水声をきけばわが稚けなかりし頃のことも自ら思出されてなつかしき心地す。新橋停車場裏にて車より降り酒肆金兵衛に入り屠蘇三杯を傾け夕餉を食して家にかへる。燈下英国公使アルコツクの江戸滞在記を読む。」
この年の元日、荷風は、午後遅く、車で雑司ヶ谷墓地に行き、先考(亡き父)及小泉八雲、成島柳北、岩瀬鷗所の墓を拝し、ぶらぶらと散歩しながら目白の新坂より音羽に出た。陸軍兵器庫とは、現在のお茶の水女子大学の西の方であろうか。その崖には樹木があり荒草が茂っていた。崖下の陋巷を歩んだとあるが、旧音羽川跡の小路と思われる。ここにむかしの井戸が多く残り、板で蓋をしていた。徃年見覚えたる細流とは音羽川のことであろう。
久世山に上る坂の麓に今宮神社の社殿神楽堂残りたり、とあるように、この今宮神社まで来た。久世山に上る坂とは、この八幡坂であろう。ここから電車道を横断し音羽通西側の裏町を歩いたが、ここの川(弦巻川)も埋められていた。不動阪の方へ上り行く小道の左側に石橋の欄干の残りたるを発見したが、そこにさくらばしと刻まれていた。不動阪とは目白坂のことと思われる。
なお、はじめに、目白の新坂より音羽に出た、とあるが、これは現在の目白新坂ではなく、位置的には不忍通り(清戸坂)のあたりを指しているような気がするがどうであろうか。
話をもとにもどし、湧水のところを直進し左折すると、鷺坂下にでることになるので、八幡坂下に引き返す。階段坂を上り、坂の中腹にもどる。 坂の中腹から上るが、ここは階段よりもスロープの方が広くなっている。坂上近くに「八幡坂」と大きく記した標識が立つ。
切絵図にある田中八幡は日輪寺境内にあった氷川神社と合併して明治二年(1869)服部坂上の小日向神社となった。その跡地に移ってきたのが、もと護国寺内にあった今宮神社で、明治維新の神仏分離令のためであるという(岡崎)。八幡宮は移っても坂名だけは残ったということらしい。
坂上の左側に、石川啄木初の上京下宿跡の説明板がある(音羽一丁目6)。明治35年(1902)11月1日に単身上京し、旧小日向台町の中学時代の先輩の下宿先を訪ね、翌日、ここにあった下宿に移ったとのこと。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)