東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鶯谷~無名の階段坂(1)

2011年02月25日 | 坂道

金剛寺坂上 金剛寺坂上の先 無名の階段坂上 金剛寺坂上を左折し進むと、やがて下りながら右へ曲がる小道に至る。その下りの途中左に階段坂がある。南へ下る緩やかな階段である。南側の眺望がちょっとよい。そのまま道なりに進み、途中左折すると、多福院である。その近くに、昭和41年までの旧町名のプレートが取り付けてあり、「旧同心町」とある。幕府の先手組の同心屋敷があったことにちなむという。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、多福院の北側に小さな屋敷がたくさん並んでおり、そこの道に、小石川同心町、とあるが、このあたりをいうのであろう。

多福院の東隣に、明地此下ヲウクヒスタニト云、とある。その明地の東隣が小石川金杉水道町である。金剛寺坂上南側から西へ延びる道と、坂上北側から西へ延びる道がともに円弧状に曲がってから一緒に南北の道となって多福院に至る。近江屋板では、円弧状の道に坂マーク△があり、多福院が谷側である。この南北の道の東が江戸切絵図でいう明地であるから、多福院のあたりを鶯谷(うぐいすだに)というのだろうか。

多福院近く 多福院 無名の階段坂上 右の写真が円弧状の坂道の一方(南側)を坂下から撮ったものである。ここを上ると、先ほどの無名の階段坂上である。

このあたりが永井荷風の随筆「礫川徜徉記」に次のように描かれている。

「・・・電車通を行くことなほ二、三町にしてまた坂の下口(おりくち)を見る。これ即金剛寺坂なり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし鶯谷は金剛寺坂の中ほどより西へ入る低地なりとは考証家の言ふところなり。嘉永板の切絵図には金剛寺の裏手多福院に接する処明地の下を示して鶯谷とはしるしたり。この日われ切絵図はふところにせざりしかど、それと覚しき小径に進入らんとして、ふと角の屋敷を見れば幼き頃より見覚えし駒井氏の家なり。坂路を隔てて仏蘭西人アリベーと呼びしものの邸址、今は岩崎家の別墅(べっしょ)となり、短葉松植ゑつらねし土墻(ついじ)は城塞めきたる石塀となりぬ。岩崎家の東鄰には依然として思案外史石橋氏の居あり。遅塚麗水翁またかつてこのあたりに鄰を卜(ぼく)せしことありと聞けり。正徳のむかし太宰春台の伝通院前に帷(とばり)を下せしは人の知る処。礫川(こいしかわ)の地古来より文人遊息の処たりといふべし。さてわれは駒井氏の門前より目指せし小路を西に入るに、ここにもまた幼き頃見覚えたりし福岡氏の門あり。福岡氏は維新の功臣なり。門前の小径は忽(たちまち)にして懸崕(けんがい)の頂に達し紐の如く分れて南北に下れり。崕下に人家あり。鶯谷は即このあたりをいふなるべし。さるにても南畝が遷喬楼の旧址はいづこならむ。文化五戊辰の年三月三日、南畝はここに六秩の賀筵を設けたる事その随筆『一話一言』に見ゆ。・・・」

「(福岡氏の)門前の小径は忽(たちまち)にして懸崕(けんがい)の頂に達し紐の如く分れて南北に下れり。崕下に人家あり。鶯谷は即このあたりをいふなるべし。」とあるが、門前の小径からすぐに崖上に達し紐のように分れて南北に下る道とは、どこであろうか。南へ下る道とは、先ほどの無名の階段坂をいっているのだろうか。いずれにしても、鶯谷とは、階段坂の南西側の低地と思われる。
(続く)

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