東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

永井荷風生家跡(2)

2011年02月22日 | 荷風

荷風生家跡近く 荷風生家跡近く 荷風生家跡近く 『御府内備考』の金杉水道町の書上に荷風生家近くの赤子橋があることを前回の記事で紹介したが、尾張屋板江戸切絵図を見ると、アカコバシとある道の北側に小石川金杉水道町がある。現在、説明板のある角を曲がった上り坂を北へ進むと、やがて、春日通りに至るが、その手前一帯付近と思われる。写真は次の週に再訪し、春日通りから入って撮ったものである。

荷風は、明治43年(1910)執筆の随筆「伝通院」の冒頭で生家のことを次のように回想している。

「われわれはいかにするともおのれの生れ落ちた浮世の片隅を忘れる事は出来まい。
 もしそれが賑な都会の中央であったならば、われわれは無限の光栄に包まれ感謝の涙にその眼を曇らして、一国の繁華を代表する偉大の背景を打目戌(うちまも)るであろう。もしまたそれが見る影もない痩村(やせむら)の端れであったなら、われわれはかえって底知れぬ懐しさと同時に悲しさ愛らしさを感ずるであろう。
 進む時間は一瞬ごとに追憶の甘さを添えて行く。私は都会の北方を限る小石川の丘陵をば一年一年に恋いしく思返す。
 十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。その頃の私には知る由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払って飯田町に家を借り、それから丁度日清戦争の始まる頃には更に一番町へ引移った。今の大久保に地面を買われたのはずっと後の事である。
 私は飯田町や一番町やまたは新しい大久保の家から、何かの用事で小石川の高台を通り過る折にはまだ二十歳にもならぬ学生の裏若い心の底にも、何とはなく、いわば興亡常なき支那の歴代史を通読した時のような淋しく物哀れに夢見る如き心持を覚えるのであった。殊に自分が呱々(ここ)の声を上げた旧宅の門前を過ぎ、その細密(こまか)い枝振りの一条(ひとすじ)一条にまでちゃんと見覚えのある植込の梢を越して屋敷の屋根を窺い見る時、私は父の名札の後に見知らぬ人の名が掲げられたばかりに、もう一足も門の中に進入る事ができなくなったのかと思うと、なお更にもう一度あの悪戯書で塗り尽された部屋の壁、その窓下へ掘った金魚の池なぞあらゆる稚時(おさなどき)の古跡が尋ねて見たく、現在其処に住んでいる新しい主人の事を心憎く思わねばならなかった。
 私の住んでいる時分から家は随分古かった。それ故、間もなく新しい主人は門の塀まで改築してしまった事を私は知っている。乃(すなわ)ち私の稚時の古跡はもう影も形もなくこの浮世からは湮滅(いんめつ)してしまったのだ……」

生家(の想い出)に対してかなりの入れ込みようである。前回の小作品「狐」もこの文脈で理解すべきなのかもしれない。この世のほとんどのおさなどきの古跡などは消え去っているのが常であろう。それゆえに「狐」のような過去に執着する作品が生まれるのであろうか。(なお、金富町から大久保余丁町に移るまでについては以前の記事参照。)

荷風生家跡 荷風生家跡 金剛寺坂付近地図 荷風の父久一郎は明治26年(1893)11月この金富町の屋敷を売却したが、その売却先は、永田清三郎という人で、この人の孫の諸井勝之助(その屋敷で生まれ、20年を過ごした)が家にあった売却時の証書や屋敷の図面を、戦後、荷風に郵送したという。

昭和27年(1952)12月23日「断腸亭日乗」に次の記述がある。

「十二月廿三日。晴。諸井勝之助(文京区真砂町十七)といふ人より余が父小石川金冨町の邸宅を売払ひし時の証書及地図を送り来る。返書を裁して其厚情を謝す。証書地図面は買主の家に在りし由。大畧左の如し。」

証書の内容も記しているが、それによると、屋敷の坪数は、実測で463坪 内54坪崖地であった。1500平方m程度で、当時でもかなり広い屋敷であったと思われる。

概略位置は、上右の写真の地図で、春日二丁目の下に赤字で「現在位置」とあるところの右側一帯であった。

松本哉「荷風極楽」(朝日文庫)によれば、諸井勝之助に「荷風の手紙」という一文があり、それによると、金剛寺坂の中腹と、前回のクランク状の道筋との間の道(上中の写真の道)に面して正門があり、金剛寺坂から来て門前を過ぎてすぐ左折すると、坂のある小道に入るが、その小道に入る際に渡る橋が赤子橋(昭和初期には平らな自然石を溝の上に敷き並べただけの橋であったという)で、上り坂の終わるあたりに裏門があったとのことである。

松本に、上記の一文を参照して文字を入れた屋敷の図面がのっている。それによると、ケヤキやムクなどの大木などとともに広い庭があったようである。この片隅に狐の穴があったのであろう。この図面を見ながら「狐」を読むのもおもしろいと思う。
(続く)

参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)

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