文京区の小石川台地へ南から北へ上る坂を巡った。主に春日通りの南の坂である。このあたりは坂が多く、名坂の宝庫で、しかも永井荷風生誕の地である。
1a出口から出ると、すぐに神田川にかかる江戸川橋である。上に首都高速道路が通っている。橋のたもとに旧町名案内が立っていて、このあたりは旧関口水道町である。その案内に水道町のいわれが次のようにある。
「江戸時代に水番所があり、大洗堰の神田上水の水門の差蓋揚卸の役を務めていた。上水の管理運営にあたる人が住んでいたので、水道町の町名ができたといわれる。」
神田川を眺めながら渡ると、江戸川公園の大きな石碑が立っている。石碑のわきを通って首都高速道路の下を進むと、目白坂の坂下にでる。ここは昨年暮れに訪れた。そのときは目白台地の坂を巡ったが、目白台地は、東は音羽通りの音羽谷で終わり、そこから小石川台地である。
目白坂下を背にして進むと大きな通りの向こうに鷺(さぎ)坂が見える。ここは、以前に訪れて記事にしたが、そのときは、鼠坂の坂上から八幡坂の坂上に出て、その坂の中腹から鷺坂上に出たのであった。
目白坂下南の横断歩道を渡り、直進すると、鷺坂の坂下である。この坂は、ちょっと勾配があるが短く、まっすぐに上って左に大きく曲がってから、さらに緩やかに上っている。その先は、階段坂(八幡坂)に出て行き止まりになるからなのか、車が通らず、いつ来ても静かである。坂下から見て左側に石垣が続き、落ち着いた雰囲気をつくっている。
歴史的に古い坂ではないようだが、そんなことにかかわりなく、わたしの好きな坂の一つである。
坂を上った正面に文京区教育委員会の説明板が立っており、その前に石柱があり、鷺坂と刻まれている。説明板には次のような説明がある。
『鷺坂 小日向二丁目19と21の間
この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。 この久世山も大正以降は住宅地となり、堀口大学(詩人・仏文学者 1892~1981)やその父で外交官の堀口九万一(号長城)も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。
足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は堀口九万一による。一面には万葉集からの引用で、他面にはその読み下しで「山城の久世の鷺坂神代より春ハ張りつゝ秋は散りけり」とある。
文学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。』
尾張屋板江戸切絵図を見ると、江戸川橋の先から北へまっすぐに音羽通りが護国寺へと延びているが、江戸川橋を北へ渡るとすぐに右折する道があり、そのあたりが音羽町九丁目で、その先が久世大和守の屋敷である。この屋敷の表門は大日坂に面している。江戸末期には鷺坂はないことがわかる。この道を横断するように北から流れ江戸川に注ぐ川があるが、これが音羽川と思われる。
明治地図でも江戸末期同様に道が行き止まりで、鷺坂はまだなく、音羽川が流れている。戦前の昭和地図を見ると、現在と同様の道筋ができており、鷺坂は、説明板のように、大正以降にできたのであろう。
野口富士男「私のなかの東京」(中公文庫)に、「鷺坂の名は久世山に住んでいた堀口大学や、附近に住んでいた佐藤春夫、三好達治らが、たわむれに万葉集の「山城の久世の鷺坂」と結びつけたものだという。つまり、江戸の坂ではなくて東京の無名坂の一つであったものだが、・・・」とある。
佐藤春夫は、目白新坂の近く七丁目坂付近の小石川区関口町207番地に住んでいたが、三好達治は、昭和11年(1936)5月から関口町206番地に住んだとあるので、二人はすぐ近くに住んでいた。この坂までも歩いて10~15分程度と思われ近くである。
坂名は、上記のように、堀口大学、三好達治、佐藤春夫らによってつけられたものらしく、こういった由来を持つ坂名も珍しいが、それ相応に当時から好ましい雰囲気のある坂であったのであろう。
坂上につくと、そこから右にさらに上る坂がある。無名の坂であるが、そこを直進すると大日坂にいたり、この坂上一帯が久世山であったと思われる。(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「三好達治詩集」(岩波文庫)