新坂(今井坂)を下り、交差点を左折し水道通りを東南へ進むと、金剛寺坂の坂下を通り過ぎ、安藤坂の坂下に至るが、これらの坂は後で来ることにし、安藤坂下の信号を渡り、北野神社(牛天神)を目指す。
ちょっと細い道を直進すると、突き当たりが牛天神である。急傾斜の石段が正面に見える。石段を見上げると、紅梅が咲いており、紅梅祭りというのもわかる。この神社は、江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれ、菅原道真を祀る。
階段を上り、境内に入ると、南側に大きめの石碑が立っている。安藤坂にあった歌塾「萩の舎」の塾主である中島歌子(1844~1903)の歌碑である。次の歌であるという。(樋口一葉は「萩の舎」の塾生であった。)
「雪 中 竹
ゆきのうちに根ざしかためて若竹の
生ひ出むとしの光をぞ 思ふ」
尾張屋板江戸切絵図(東都小石川絵図)を見ると、ちょうど南東の端に牛天神がある。その南に神田上水が流れているが、そこにかかる橋が参道であったようである。その北が牛坂である。いまの石段はのっていない。
永井荷風は、この近く(金富町)で生まれたので、たびたび、このあたりを訪れているが、次は昭和19年(1944)9月21日「断腸亭日乗」の記述である。
「九月廿一日。秋陰漫歩によし。小石川牛天神附近の地理を知る必要あり三時頃家を出でゝ赴き見たり。砲兵工廠の構内むかしとは全くちがひたれば従つて其裏手なる仲町の様子も今は全く旧観を存せず。西岸寺日限の不動に賽し電車通に出で大門町の陋巷を過ぎ金冨町を歩む。余の生れし家の門には永田甚之助といふ札かゝげられ、裏隣の昔田尻子爵の邸には東方社の札下げられたり。もと来し道をたどり安藤坂に出で、牛天神の境内を見て後、表の石段を降るに安藤坂の下民家取払はれ、諏訪神社の社殿のみ空地の上に取残されたり。諏訪町の民家半分ほど取壊されたり。五時過家に帰るに不在中凌霜子来りしとおぼしく其名刺勝手口に置きてあるを見る。」
この日、荷風は、牛天神附近の地理を知る必要があり、このあたりに来た。旧生家のあたりに行ってから安藤坂にでて牛天神に来たようである。境内を見てから表の石段を下りたが、安藤坂の下や諏訪町では民家が取り払われていた。敗色濃厚の戦争末期の頃である。この日の日乗には、荷風手書きの牛天神付近の地図(右の写真)が添えられている。この地図を見ると、牛天神の参道はこの頃切絵図と同じく南側にあった。いまの石段はこの頃すでにあったようである。急坂とある。安藤坂上付近はこの当時からあまり変わっていないように思われる。
ところで、次の日の日乗にも手書きの地図が説明なく添えられているが、どこかわからない。上記の諏訪神社のあたりの地図かもしれない。この神社や西岸寺は以前訪れたことがあるが、再訪したい。
境内を出て本殿の裏側に回ると、左手が牛坂の坂上である。坂上側がちょっと急勾配でほぼまっすぐに下っている。長さはさほどない。石垣が風情のある坂の風景をつくっている。右手に進むと、西岸寺を左に見て富坂上にでる。
上記の荷風手書きの地図に、ウラ門とあり、そこから右側の細い道がこの坂と思われる。
中腹に説明板が立っており、次の説明がある。
「牛(うし)坂 春日一丁目5 北野神社北側
北野神社(牛天神)の北側の坂で、古くは潮見坂・蛎殻(かきがら)坂・鮫干(さめほし)坂など海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は、今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。
牛坂とは、牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来となったといわれる。(牛石はもと牛坂下にあった)
『江戸志』に、源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、老松につないでなぎを待つ。その間、夢に菅中(菅原道真)が、牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石がこれである。と記されている。」
尾張屋板には、上記のように、牛天神の北に牛サカとあり、坂下に、牛石とあり、そばに石らしき微小な絵が描かれている。近江屋板も同じように、△牛サカと牛石とあり、わきに小さな石がある。
『御府内備考』の小石川の総説に「牛坂は天神の社の後の坂をいへり、この所にも裏門あり、牛石は坂のもとなり、水埜家屋敷の前にあり、根入の深きことはかるべからず、【江戸志】」とある。牛石は根が深かったらしい。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)