東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

永井荷風生家跡(1)

2011年02月21日 | 荷風

安藤坂上側から西への道 荷風生家跡近く 荷風生家跡近く 荷風生家跡近く 安藤坂上側の三中前の横断歩道を渡り、そのまま西へ進むと、突き当たるので、左折し、次に右折する。ここは、写真のように、すこし下り坂のみごとなクランク状の道筋である。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、安藤坂から西に延びる道が同様になっているが、突き当たり手前に右折する小路がある。近江屋板、明治地図、戦前の昭和地図も同様である。こういった特徴は色んな地図を見るときの目印になる。

クランク状の道筋を西へ進む。緩やかな下り坂が金剛寺坂中腹へと続いている。ちょっと進むと、右折する上り坂となった小路があるが、その角に「永井荷風生育地」の説明板が立っている。

荷風生家跡 荷風生家跡 荷風生育地説明板 永井荷風、本名壯吉は、ここ小石川区金富町45番地(文京区春日二丁目20番25号あたり)で明治12年(1879)12月3日に父久一郎、母恆(つね)の長男として生まれた(以前の記事参照)。久一郎はこのとき洋行帰りの少壮官吏であった。この生家のことは、荷風初期の作品「狐」(明治42年(1909)1月1日発表)に詳しい。以下、少々長いが、その冒頭である。

『小庭を走る落葉の響、障子をゆする風の音。
 私は冬の書斎の午過ぎ。幾年か昔に恋人とわかれた秋の野の夕暮を思出すやうな薄暗い光の窓に、ひとり淋しく火鉢にもたれてツルゲネーフの伝記を読んでゐた。
 ツルゲネーフはまだ物心もつかぬ子供の時分に、樹本のおそろしく生茂った父が屋敷の庭をさまよって、或る夏の夕方に、雑草の多い古池のほとりで、蛇と蛙の痛しく噛み合ってゐる有様を見て、善悪の判断さへつかない幼心に、早くも神の慈悲心を疑った……と読んで行く中に、私は何時となく理由なく、私の生れた小石川金富町の父が屋敷の、おそろしい古庭のさまを思ひ浮べた。もう三十年の昔、小日向水道町に水道の水が、露草の間を野川の如くに流れてゐた時分の事である。
 水戸の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売物となってゐたのをば、維新の革命があって程もなく、新しい時代に乗じた私の父は空屋敷三軒ほどの地所を一まとめに買ひ占め、古びた庭園や木立をそのまゝに広い邸宅を新築した。私の生れた時には其の新しい家の床柱にも、つやぶきんの色の稍(やや)さびて来た頃で。されば昔のまゝなる庭の石には苔いよいよ深く、樹木の陰はいよいよ暗く、その最も暗い木立の片隅の奥深いところには、昔の屋敷跡の名残だといふ古井戸が二つもあった。その中の一つは出入りの安吉といふ植木屋が毎年々々手入の松の枯葉、杉の折枝、桜の落葉、あらゆる庭の塵埃を投げ込み、私が生れぬ前から五六年もかゝつて漸くに埋め得たと云ふ事で。丁度四歳の初冬の或る夕方、私は松や蘇鉄や芭蕉なぞに其の年の霜よけを為し終へた植木屋の安が、一面に白く乾いた茸の黴(か)び着いてゐる井戸側を取破してゐるのを見た。これも恐ろしい数ある記念の一つである。蟻、やすで、むかで、げじげじ、みゝず、小蛇、地蟲、はさみ蟲、冬の住家に眠って居たさまざまな蟲けらは、朽ちた井戸側の間から、ぞろぞろ、ぬるぬる、うごめき出し、木枯の寒い風にのたうち廻って、その場に生白い腹を見せながら斃死(くたば)ってしまふのも多かった。安は連れて来た職人と二人して、鉈で割った井戸側へ、その日の落葉枯枝を集めて火をつけ高箒(たかぼうき)でのたうち廻って匍出す蛇、蟲けらを掻寄せて燃した。パチリバチリ音がする。焔はなくて、湿った白い烟ばかりが、何とも云へぬ悪臭を放ちながら、高い老樹の梢の間に立昇る。老樹の梢には物すごく鳴る木枯が、驚くばかり早く、庭一帯に暗い夜を吹下した。見えない屋敷の方で、遠く消魂(けたたま)しく私を呼ぶ乳母の声。私は急に泣出し、安に手を引かれて、やっと家へ帰った事がある。

荷風生家跡 荷風生家跡 荷風生家跡  安は埋めた古井戸の上をば奇麗に地ならしをしたが、五月雨、夕立、二百十日と、大雨の降る時々地面が一尺二尺も凹むので、其の後は縄を引いて人の近かぬやう。私は殊更父母から厳しく云付けられた事を覚えて居る。今一つ残って居る古井戸はこれこそ私が忘れやうとしても忘られぬ最も恐ろしい当時の記念である。井戸は非常に深いさうで、流石の安も埋めようとは試みなかった。現在は如何なる人の邸宅になって居るか知らぬけれど、あの井戸ばかりは依然として、古い古い柳の老木と共に、あの庭の片隅に残って居るであらうと思ふ。』

「狐」は荷風29才の時の作品であるが、その当時の描写が詳しく、ついこの間のごとくのように書いている。こういった圧倒的な表現は荷風のもっとも得意とするところで、読む者は当時の光景を生き生きと思い描くことができる。それにしても、三十年も前の少年時代をこのように表現できる文章力、感性とその持続力は、やはり、生来のものなのであろう。

この作品は、その古庭に狐が出没し雞(にわとり)を喰い殺したことをめぐる父や住み込みの書生や出入りの人たち大人の振る舞いを少年の眼を通して描いたものである。この少年の眼を荷風は生涯持ち続けたように思う。なお、この作品は、確か文庫本にはなく、全集や作品集で読むしかないようであるが、文庫本に入れるべき作品と思う。

荷風生家跡 荷風生家跡 荷風生家跡 尾張屋板に、現在説明板の立っている角を曲がったところに「アカコバシ」とあるように、ここに、赤子橋という橋があった。近江屋板にも「アカコバシ」とあり、その先に、坂マーク(△)があり、現在も短いがちょっとした坂になっている。この坂下に橋があったようである。

この橋について『御府内備考』の金杉水道町の書上に次のようにある。

「一橋 右南の方同町続武家屋敷前に石を三枚並有之、字赤子橋唱申候、尤同所に往古御駕の衆拝領地面有之候に付御駕橋を赤子橋と言誤候哉、又は橋の上え赤子を捨有之儀も有之哉にて右より赤子橋と相唱来候得共、矢張町内付きの分も同様里俗に赤子橋と相唱候に付、町内より隔候得共申上候、」

この橋は、道幅からいって当然であろうが、石を三枚並べた小さなものであった。橋名のいわれは、このあたりにむかし御駕(おかご)の衆の拝領地があり、御駕橋を赤子橋と言い誤ったのか、橋の上に赤子が捨ててあったからか、などとしている。
(続く)

参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「荷風全集 第六巻」(岩波書店)

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