Aruiのスペース

自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

一番古い友からの電話ー1

2008-07-07 23:04:26 | Weblog
一番古い友からの電話ー1

貴方の一番古い友達はどんな人ですか?私の一番古い友は
上海で幼年期を過ごした時の友である大友君ですが、もう
だいぶ前に、連絡が付かなくなってしまいました。実に残
念です。その次ぎに古い友は、私達家族が、上海から引き
上げて、父の故郷である福島県伊達市に一旦、居を構えた
時の学友勝行さんです。

日本が戦争に負けた日、1945年8月15日、私は上海第八国
民小学校の1年生、7歳でした。前日の14日、私が近所の子
と遊んで居た時、そこの家のお姉さんが、泣きならやって
きて、日本が戦争に負けたと言いました。私はこんな大人
の人でも泣くのは、凄いことなんだと思った記憶が有りま
す。翌日、そこの日本人家族が一つの家に集まり、天皇陛
下の終戦の詔勅を聞きました。私には何を言っているのか
全く判らず、隣の家の女の子と、おはじきをして遊んでい
ました。

その日から敗戦国民となった我々日本人は、特に中国北部
に居た人達は大変な苦労に遭遇しました。私達はたいした
目には遭わずに日本に帰ってきました。翌年の4月には上海
から船に乗って博多に着き、首からDDTの粉を浴びせら
れ汽車を乗り継いで、福島に、そこから福電で梁川に着い
たのです。

私は梁川小学校の2年に編入されました。1年の時に、殆ど
勉強らしい勉強をせずに2年生になりました。私の父は、
福島人なのに若い頃から上京し、苦労して大学を出て、東
京人の母と結婚し、私は東京弁で育てられました。だから
福島の小学校に入ったとたんに、異文化人となりました。
周りの子供達に歓迎されると思いきや、こいつ東京の言葉を
喋ると周りを囲まれました。誰かが生意気だと言いました。
あの頃、生意気だは、立派な戦線布告の言葉でした。普通は
ここで、私はいじめに会うことになりますが、私の場合は、
こんなに小さい頃から、いじめには敢然と立ち向かうことが
体内に組み込まれており、それを聞いた瞬間に、何この野郎
と相手を殴り飛ばしていました。そこに居た相手を全部やっ
つけました。

これで、自分の組は平らげたので、安心して居ると、隣の
組のガキ大将が、攻めてきます。この時助けてくれたのが
同学年で隣の組の勝行さんでした。私も喧嘩は強かった。
同学年の子なら4人位は負けない自信は有ったし、1対1なら
2学年くらい上でも負けないでやりました(やっつけた相手の
兄貴が敵討ちに来るので、どうしてもやります)。しかし
勝行さんは、もっと強かったです。頼もしい友でした。

その勝行さんから、この6月に電話があり、「アルイちゃん
もう定年だべ、ゴルフでもすっぺよ」と誘われました。