おにぎり2個の里みち歩き 農山漁村の今昔物語

おにぎりを2個持って農村・山村・漁村を歩き、撮り、聞き、調べて紹介。身辺事象もとりあげます。写真・文章等の無断転載禁止

鹿沼市板荷のアンバサマ 3  烏天狗による悪魔払い

2011年03月16日 00時00分00秒 | 民俗
写真1 写真2
写真3 写真4
写真5 写真6
写真7

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 アンバサマ一行がU家に着く。
 大杉神社の神輿・猿田彦が置かれ(写真3)、お囃子が始まる(写真4)。
 神輿・猿田彦にU家の主人や奥様(写真5)が、見物人がそれぞれ拝礼。

 御利益を分かつように、U家の主人や奥様に、家族に、見物人に大杉神社の赤飯とタクアンが配られる(写真6)。
 幟をもつ子どもたちにはお菓子が配られる(写真7)。
 大杉神社の赤飯には塩や胡麻を振りかけてない。

 その間、アンバサマはクライマックス、悪魔払いの烏天狗(カラステング)2人が屋内に飛び込む(写真1・2)。
 

 引用・参考文献等:弊ブログ2011年03月15日
 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:2011年03月06日 撮影地:栃木県鹿沼市板荷3区
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鹿沼市板荷のアンバサマ 2  幟もつ子どもたちが先導

2011年03月15日 00時00分00秒 | 民俗
写真1
写真2 写真3
写真4 写真5


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 板荷のアンバサマは2日にわたり行なわれる。
 板荷は、大杉神社を境に上(カミ)と下(シモ)に分かれる。

 カミは40軒余が、シモは20軒余が、それぞれ悪魔払いとお囃子を頼み迎える。
 カミは2011年03月05日の土曜日に、シモは翌日曜日に迎える。
 家族や親族、隣り近所に不幸のあった家はお囃子を頼まず、悪魔払いだけ。

 さて、U家でアンバ様を待っていると、お囃子の音が耳に入る。
 出て見ると、アンバサマ一行は幟をもつ子どもたちを先頭にU家へ向かっている(写真1・写真2)。

 U家のあるシモは頼み迎える家が離れているので、アンバサマ一行は車で移動(写真3~写真5)。

 引用・参考文献等:弊ブログ2011年03月14日
 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:2011年03月06日 撮影地:栃木県鹿沼市板荷3区
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鹿沼市板荷のアンバサマ 1  接待用のソバ打ち

2011年03月14日 00時00分00秒 | 民俗
写真1
写真2

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 2011年03月06日、日曜日、アンバサマの日。
 U家の奥様が、オモヤ裏の納屋でソバをうちながら(写真1)、次のように教えてくださる。
   今日は、アンバサマのヤクビトや見物人を接待するため、1㎏の蕎麦粉をぶつ。
   板荷に嫁に来て50数年、お祝いごとや年越しに多量のソバをぶつ。
   あとつぎの息子さんが、大きなメンバン(メンイタ・麺板)を買ってくれ、今使っている。
   ソバ切りは、機械をもっているが、包丁を使う。

 奥様のソバうちを写真に収めながら、筆者は、子供のころ、祖母や叔母がソバをうっていたのを思いだす。
 祖母は既に鬼籍。

 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:2011年3月6日 撮影地:栃木県鹿沼市板荷3区
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イタチ くん  こんにちわ  お久しぶり

2011年03月13日 00時51分03秒 | 動物
写真1
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 当ブログ2010年12月16日に紹介したイタチ。所はかわり、2011年3月6日昼どき、再会。一昨日2011年3月11日に紹介した行川(なめかわ)の上流左岸で、オニギリを口にして、川の中の石積み洗堰をみていた時。
 視界の左で何か動く。眼をやると、石積み護岸の上にイタチ。数秒で河川敷のヨシ原の中へ消える。しかし、ガサ、ガサ、音がする。きっと、また姿を見せるに違いない、とカメラをかまえ、ファインダーを覗き続ける。
 案の定、姿を見せる。イタチくん、お久しぶり、こんにちは、の感じ(写真1)。
 イタチくんは、ヨシ原の獣道を上流へ消える(写真2・3)。その間、数回筆者と眼があう。
 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:2011年3月6日 撮影地:日光市下小代
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東北地方太平洋沖地震 の 体験記

2011年03月12日 15時10分05秒 | 日記
 東北地方太平洋沖地震及び津波で亡くなられた皆様にお悔やみ申し上げます。また、被災者のご快復を祈念します。

 さて、都内に勤務する遠距離通勤の筆者と息子、娘の体験の一部を、不謹慎とは存じつつ次に記す。ご寛恕を乞います。
 
 1.2011年03月11日14時46分頃、アメリカ大使館近くのビル・9階で働く筆者たちにも地震がおそう。じょじょに強くなり、これまで体験したことのない揺れ。机に積んでいた書類が床に落ちる。立ってられず、ひざまずく。
 2.ビルの防災担当からの指示で、ホテルオークラの駐車場に避難。
   隣りのビルは窓ガラスの一部が割れている。その様子がテレビ報道される。
   同ビルは、ゆらゆら揺れていた、と同僚が驚く。
   妻から、自宅の本立てが倒れた、とメール。 
 3.16時前、席に戻る。しかし、余震が頻発。その後も、夜通し余震、余震、余震。
 4.帰宅してよい、と上司の指示。17時前、都内居住の7人と常磐線沿いの3人が事務所を出る。筆者は、通勤路の地下鉄銀座線とJR宇都宮線が止まっているので帰宅せず、上司や同僚11人と事務所に泊ることに決める。
 5.17時頃、オニギリなど食料品をコンビニへ買いに行くが、オニギリは売り切れ。
 6.帰宅組のうち、都内居住の2人は都営バスに乗れないと2時間ほどで事務所に戻る。常磐線組も、上野駅まで歩いたが、その先に進む交通手段がなく、地下鉄銀座線の運転再開を待ち、事務所に戻る。すでに22時30分。帰宅組の女性1人は埼玉県朝霞市まで歩き、0時過ぎに帰宅との連絡が入る。
 7.その間、枝野官房長官が、自宅が遠距離の人は歩かず、安全な場所・施設に避難し、勤務場所に止まるように、と談話を発表。
 8.食事や買い物は、エレベーターに乗れず、階段9階を自力で上下せねばならないので、躊躇する人もいる。
 9.息子は、21時頃、丸の内にある事務所を出て、直線距離20㎞の草加市にある寮まで走り、歩いて0時頃着いた、との電話。北千住まで1時間ほど走り、墨田川を渡り、区立中学校の体育館で20分ほど休み、飲料水をもらう。また、歩き出し、途中、家族経営のコンビニが無料ペットボトルを徒歩帰宅者に配っていたので、いただく。ともに、ありがたかった、と息子の御礼。
 10.都心に勤務する娘の安否を妻に確認するが、娘への電話が通じない、と妻の返事。筆者は、22時頃、娘にメールし、0時過ぎに返答メール。会社手配の車で同僚といっしょに寮へ帰った、と。
 11.とにかく、地震と津波によるとてつもない被災の規模と内容に驚嘆しつつ、椅子に座って夜をあかす。
 12.12日の日の出前、運転再開の地下鉄で都内居住の2人が帰宅。
 13.ほどなく、常磐線沿いの1人が帰宅。
 14.6時頃、運転再開の西武線沿いの上司1人が帰宅。
 15.6時30分頃、運転再開の東武東上線沿いの上司1人が帰宅。
 16.8時30分になっても、筆者がふだん使うJR宇都宮線は運転見合わせ中。
 17.そのため、息子に電話。動いている地下鉄南北線・埼玉高速鉄道を使い浦和美園駅まで行き、息子が車で宇都宮線沿いの筆者宅まで送ることになる。
 18.9時過ぎ、地下鉄南北線に乗り、10時10分頃、浦和美園駅に着く。
 19.10時40分頃、息子の車に乗り、東北自動車側道を走る。東北自動車に車はない。しかし、消防車、レスキュー車、救急車など数十輌が猛スピードで下り線を走って行く。OSAKAの文字が目に入る。大阪市のレスキュー車か。東北自動車が緊急交通路に指定されていることを、このブログを書く今、知る。
 20.一方、筆者と息子が走るさいたま栗橋線を、「災害派遣」の横断幕をはった陸上自衛隊御殿場駐屯地のホロつきトラック2台が走っている。東北自動車を走れば早く被災地に着くのに、なぜ?、と素直な思い。
 21.12時10分、拙宅に着く。
 以上、約22時間の地震帰宅難民の体験です。
 
                 亡くなられたかたのご冥福を祈ります。合掌





















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