東北地方太平洋沖地震及び津波で亡くなられた皆様にお悔やみ申し上げます。また、被災者のご快復を祈念します。
さて、都内に勤務する遠距離通勤の筆者と息子、娘の体験の一部を、不謹慎とは存じつつ次に記す。ご寛恕を乞います。
1.2011年03月11日14時46分頃、アメリカ大使館近くのビル・9階で働く筆者たちにも地震がおそう。じょじょに強くなり、これまで体験したことのない揺れ。机に積んでいた書類が床に落ちる。立ってられず、ひざまずく。
2.ビルの防災担当からの指示で、ホテルオークラの駐車場に避難。
隣りのビルは窓ガラスの一部が割れている。その様子がテレビ報道される。
同ビルは、ゆらゆら揺れていた、と同僚が驚く。
妻から、自宅の本立てが倒れた、とメール。
3.16時前、席に戻る。しかし、余震が頻発。その後も、夜通し余震、余震、余震。
4.帰宅してよい、と上司の指示。17時前、都内居住の7人と常磐線沿いの3人が事務所を出る。筆者は、通勤路の地下鉄銀座線とJR宇都宮線が止まっているので帰宅せず、上司や同僚11人と事務所に泊ることに決める。
5.17時頃、オニギリなど食料品をコンビニへ買いに行くが、オニギリは売り切れ。
6.帰宅組のうち、都内居住の2人は都営バスに乗れないと2時間ほどで事務所に戻る。常磐線組も、上野駅まで歩いたが、その先に進む交通手段がなく、地下鉄銀座線の運転再開を待ち、事務所に戻る。すでに22時30分。帰宅組の女性1人は埼玉県朝霞市まで歩き、0時過ぎに帰宅との連絡が入る。
7.その間、枝野官房長官が、自宅が遠距離の人は歩かず、安全な場所・施設に避難し、勤務場所に止まるように、と談話を発表。
8.食事や買い物は、エレベーターに乗れず、階段9階を自力で上下せねばならないので、躊躇する人もいる。
9.息子は、21時頃、丸の内にある事務所を出て、直線距離20㎞の草加市にある寮まで走り、歩いて0時頃着いた、との電話。北千住まで1時間ほど走り、墨田川を渡り、区立中学校の体育館で20分ほど休み、飲料水をもらう。また、歩き出し、途中、家族経営のコンビニが無料ペットボトルを徒歩帰宅者に配っていたので、いただく。ともに、ありがたかった、と息子の御礼。
10.都心に勤務する娘の安否を妻に確認するが、娘への電話が通じない、と妻の返事。筆者は、22時頃、娘にメールし、0時過ぎに返答メール。会社手配の車で同僚といっしょに寮へ帰った、と。
11.とにかく、地震と津波によるとてつもない被災の規模と内容に驚嘆しつつ、椅子に座って夜をあかす。
12.12日の日の出前、運転再開の地下鉄で都内居住の2人が帰宅。
13.ほどなく、常磐線沿いの1人が帰宅。
14.6時頃、運転再開の西武線沿いの上司1人が帰宅。
15.6時30分頃、運転再開の東武東上線沿いの上司1人が帰宅。
16.8時30分になっても、筆者がふだん使うJR宇都宮線は運転見合わせ中。
17.そのため、息子に電話。動いている地下鉄南北線・埼玉高速鉄道を使い浦和美園駅まで行き、息子が車で宇都宮線沿いの筆者宅まで送ることになる。
18.9時過ぎ、地下鉄南北線に乗り、10時10分頃、浦和美園駅に着く。
19.10時40分頃、息子の車に乗り、東北自動車側道を走る。東北自動車に車はない。しかし、消防車、レスキュー車、救急車など数十輌が猛スピードで下り線を走って行く。OSAKAの文字が目に入る。大阪市のレスキュー車か。東北自動車が緊急交通路に指定されていることを、このブログを書く今、知る。
20.一方、筆者と息子が走るさいたま栗橋線を、「災害派遣」の横断幕をはった陸上自衛隊御殿場駐屯地のホロつきトラック2台が走っている。東北自動車を走れば早く被災地に着くのに、なぜ?、と素直な思い。
21.12時10分、拙宅に着く。
以上、約22時間の地震帰宅難民の体験です。
亡くなられたかたのご冥福を祈ります。合掌
さて、都内に勤務する遠距離通勤の筆者と息子、娘の体験の一部を、不謹慎とは存じつつ次に記す。ご寛恕を乞います。
1.2011年03月11日14時46分頃、アメリカ大使館近くのビル・9階で働く筆者たちにも地震がおそう。じょじょに強くなり、これまで体験したことのない揺れ。机に積んでいた書類が床に落ちる。立ってられず、ひざまずく。
2.ビルの防災担当からの指示で、ホテルオークラの駐車場に避難。
隣りのビルは窓ガラスの一部が割れている。その様子がテレビ報道される。
同ビルは、ゆらゆら揺れていた、と同僚が驚く。
妻から、自宅の本立てが倒れた、とメール。
3.16時前、席に戻る。しかし、余震が頻発。その後も、夜通し余震、余震、余震。
4.帰宅してよい、と上司の指示。17時前、都内居住の7人と常磐線沿いの3人が事務所を出る。筆者は、通勤路の地下鉄銀座線とJR宇都宮線が止まっているので帰宅せず、上司や同僚11人と事務所に泊ることに決める。
5.17時頃、オニギリなど食料品をコンビニへ買いに行くが、オニギリは売り切れ。
6.帰宅組のうち、都内居住の2人は都営バスに乗れないと2時間ほどで事務所に戻る。常磐線組も、上野駅まで歩いたが、その先に進む交通手段がなく、地下鉄銀座線の運転再開を待ち、事務所に戻る。すでに22時30分。帰宅組の女性1人は埼玉県朝霞市まで歩き、0時過ぎに帰宅との連絡が入る。
7.その間、枝野官房長官が、自宅が遠距離の人は歩かず、安全な場所・施設に避難し、勤務場所に止まるように、と談話を発表。
8.食事や買い物は、エレベーターに乗れず、階段9階を自力で上下せねばならないので、躊躇する人もいる。
9.息子は、21時頃、丸の内にある事務所を出て、直線距離20㎞の草加市にある寮まで走り、歩いて0時頃着いた、との電話。北千住まで1時間ほど走り、墨田川を渡り、区立中学校の体育館で20分ほど休み、飲料水をもらう。また、歩き出し、途中、家族経営のコンビニが無料ペットボトルを徒歩帰宅者に配っていたので、いただく。ともに、ありがたかった、と息子の御礼。
10.都心に勤務する娘の安否を妻に確認するが、娘への電話が通じない、と妻の返事。筆者は、22時頃、娘にメールし、0時過ぎに返答メール。会社手配の車で同僚といっしょに寮へ帰った、と。
11.とにかく、地震と津波によるとてつもない被災の規模と内容に驚嘆しつつ、椅子に座って夜をあかす。
12.12日の日の出前、運転再開の地下鉄で都内居住の2人が帰宅。
13.ほどなく、常磐線沿いの1人が帰宅。
14.6時頃、運転再開の西武線沿いの上司1人が帰宅。
15.6時30分頃、運転再開の東武東上線沿いの上司1人が帰宅。
16.8時30分になっても、筆者がふだん使うJR宇都宮線は運転見合わせ中。
17.そのため、息子に電話。動いている地下鉄南北線・埼玉高速鉄道を使い浦和美園駅まで行き、息子が車で宇都宮線沿いの筆者宅まで送ることになる。
18.9時過ぎ、地下鉄南北線に乗り、10時10分頃、浦和美園駅に着く。
19.10時40分頃、息子の車に乗り、東北自動車側道を走る。東北自動車に車はない。しかし、消防車、レスキュー車、救急車など数十輌が猛スピードで下り線を走って行く。OSAKAの文字が目に入る。大阪市のレスキュー車か。東北自動車が緊急交通路に指定されていることを、このブログを書く今、知る。
20.一方、筆者と息子が走るさいたま栗橋線を、「災害派遣」の横断幕をはった陸上自衛隊御殿場駐屯地のホロつきトラック2台が走っている。東北自動車を走れば早く被災地に着くのに、なぜ?、と素直な思い。
21.12時10分、拙宅に着く。
以上、約22時間の地震帰宅難民の体験です。
亡くなられたかたのご冥福を祈ります。合掌