どうして、こんなに哀しみと怒りに震えるような事件が続くのだろう。
私の子供達が小さかった頃、真っ暗になっても帰って来なくて心配する事が多々あった。でも、心配する事は、川に落ちたのではとか、帰り道が分からなくなったのではとか、楽しくて遊びを止められないのではとか、そんな事だった。玄関の前をあっちこっちウロウロしながら、帰りを待った。幼稚園の兄は、眠くて半分眠りながらヨロヨロ歩く妹の手を引いて、暗くなった道を帰って来たっけ。
私が子供の頃は、田舎の暗闇は怖いものだった。今のように道に街灯は無かった。隣の家に行く時、月明かりも星明りも無い闇夜は、まるで懐中電灯の照らす足元にしか世界が無いようで心細く怖かった。ぼんやりと黒く立ち上がる木々の塊が怖かった。暗闇に潜む幽霊やお化けや魔物が怖かった。
でも、今は夜が明るくなった。24時間明かりのともるコンビニ。一台も車が通らない道にも街灯はある。種々の自動販売機はムダに明るく、幽霊もお化けも魔物も、もう別世界に行っていまった。そして、それに代わるように、現代の魔物は太陽の下でも、沢山の人がいる所でも人々の死角をついて出てくる。そして、黙って刃を振るう。
どうして、人間は人間を殺す事が出来るのだろう。それも、人を疑う事を知らないような“きれいな澄んだ目”の幼い少女達を、その手で殺す事が出来るのだろう。どうして、信頼の瞳が恐怖に変わるのを直視出来るのだろう。
どうしたら、そんな犯罪者に育つのだろう。どうして、いつから、幾つの時から人間の心が壊れてしまうのだろう。それとも、生まれながらに壊れているのだろうか。
どんな親だって自分の子が将来、犯罪者になるなんて子育ての時に思いはしない。それなりに、自分の子供の将来に夢を託しただろうに。犯罪者の親達も死ぬほどの苦しみにもがいている事だろう。
私達大人は子供達が犯罪の犠牲者にならないように、また、子供達が大きくなって犯罪者の側に立たないように、常に近所のそして回りの子供達に暖かい心を向けて行かなければならないのではないだろうか。
私の子供達が小さかった頃、真っ暗になっても帰って来なくて心配する事が多々あった。でも、心配する事は、川に落ちたのではとか、帰り道が分からなくなったのではとか、楽しくて遊びを止められないのではとか、そんな事だった。玄関の前をあっちこっちウロウロしながら、帰りを待った。幼稚園の兄は、眠くて半分眠りながらヨロヨロ歩く妹の手を引いて、暗くなった道を帰って来たっけ。
私が子供の頃は、田舎の暗闇は怖いものだった。今のように道に街灯は無かった。隣の家に行く時、月明かりも星明りも無い闇夜は、まるで懐中電灯の照らす足元にしか世界が無いようで心細く怖かった。ぼんやりと黒く立ち上がる木々の塊が怖かった。暗闇に潜む幽霊やお化けや魔物が怖かった。
でも、今は夜が明るくなった。24時間明かりのともるコンビニ。一台も車が通らない道にも街灯はある。種々の自動販売機はムダに明るく、幽霊もお化けも魔物も、もう別世界に行っていまった。そして、それに代わるように、現代の魔物は太陽の下でも、沢山の人がいる所でも人々の死角をついて出てくる。そして、黙って刃を振るう。
どうして、人間は人間を殺す事が出来るのだろう。それも、人を疑う事を知らないような“きれいな澄んだ目”の幼い少女達を、その手で殺す事が出来るのだろう。どうして、信頼の瞳が恐怖に変わるのを直視出来るのだろう。
どうしたら、そんな犯罪者に育つのだろう。どうして、いつから、幾つの時から人間の心が壊れてしまうのだろう。それとも、生まれながらに壊れているのだろうか。
どんな親だって自分の子が将来、犯罪者になるなんて子育ての時に思いはしない。それなりに、自分の子供の将来に夢を託しただろうに。犯罪者の親達も死ぬほどの苦しみにもがいている事だろう。
私達大人は子供達が犯罪の犠牲者にならないように、また、子供達が大きくなって犯罪者の側に立たないように、常に近所のそして回りの子供達に暖かい心を向けて行かなければならないのではないだろうか。
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