杏子の映画生活

新作映画からTV放送まで、記憶の引き出しへようこそ☆ネタバレ注意。趣旨に合ったTB可、コメント不可。

おもかげ

2020年12月29日 | 

浅田次郎(著)毎日新聞出版

定年の日に倒れた男の〈幸福〉とは。
心揺さぶる、愛と真実の物語。商社マンとして定年を迎えた竹脇正一は、送別会の帰りに地下鉄の車内で倒れ、集中治療室に運びこまれた。
今や社長となった同期の嘆き、妻や娘婿の心配、幼なじみらの思いをよそに、竹脇の意識は戻らない。
一方で、竹脇本人はベッドに横たわる自分の体を横目に、奇妙な体験を重ねていた。
やがて、自らの過去を彷徨う竹脇の目に映ったものは――。(書籍紹介より)

 

「地下鉄に乗って」は映画を観た記憶があります。今作も地下鉄が物語の中で重要な役割を果たしています。

最初に竹脇と同期だった社長が登場するので、てっきり彼がこの物語の主人公だと思ったら違いました

続いて、竹脇の妻や娘婿、幼馴染の視点でICUの竹脇への想いが描かれていくのですが、遂に意識の戻らない竹脇自身の話になっていき・・・。あぁ、彼がこの物語の主人公なのねと気が付いたのでした

竹脇正一が倒れたのは、定年退職の送別会の帰り道の地下鉄の車内でした。

地下鉄の車内に棄てられていた彼は、親も自分の誕生日も自分の名前すら知らずに孤児院で育ちます。やがて奨学金を得て大学に入り、一流会社に就職しエリートサラリーマンになります。結婚し、子供にも恵まれますが、長男の春哉は4歳の時に交通事故死してしまいます。哀しい記憶を封印し、仕事に邁進してきた彼にとって、人生とは、幸福とは何だったのか・・。忘れなければ生きていけなかった過去とは?

ICUで様々な管に繋がれたまま横たわる彼の意識だけが身体から抜け出して、出会う三人の女性。

マダム・ネージュと名乗る貴婦人と高級レストランでの食事。白いサンドレスを着た入江静(と名付けた)との夏の日の海辺の会話。

隣のベッドの患者・榊原勝男(勝っちゃん)に誘われて出かけた銭湯と屋台で一杯やりながら聞いた彼の初恋話。その女性峰子との地下鉄の出会い。そして、彼自身の初めての女性・古賀文月との再会。

女性たちの素性を、妻のジム仲間か、それとも死神か、もしかしたら天使かと訝しむ正一でしたが、やがてこれは彼自身の記憶との対話なのだと気付いていくんですね。無意識下でも、冷静に分析するあたりが、いかにも国立大出のエリートらしい 長身でハンサムとも表現されていて、出自のことがなければ、非の打ちどころのない「勝ち組」に見えますが、実は彼自身の心の奥底には、自分を棄てた親や世間への怨嗟がありました。この不思議な体験を通して、彼は自分の過去と正面から向き合ったのです。

幼馴染の永山徹は施設での思い出を、大野武志は少年院出の自分を娘婿として受け入れてくれた思い出を、看護師の児島直子は20年来の地下鉄で見かける紳士への思い出を語りながら、彼に回復してほしいと語り掛けます。そもそも送別会に100人も集まるほど、彼は周囲から愛されていたのです。過去がどれほど辛いものであっても、彼は今の自分を自分自身の力で作り上げてきたのです。なのに、彼は過去に囚われ続けているように見える…そう思いながら読み進めると最後に素敵な種明かしが待っていました。

三人の女性は実は同じ人で、彼にとってとても意味のある人だったと明かされるのです。

彼は自分が棄てられた場面を見、母の事情を知り、その場にいた人たちの温かさを感じることができました。生きるために、生かすために棄てられたのだと理解した彼は母を赦し、そのことに感謝します。 赤ん坊だった彼と母との約束は今こそ果たされたのですね。そしてそれは憎しみという呪縛からの解放であり、生きることへの渇望であり、希望にも繋がっていました。

最後に彼は春哉と出会い、彼から100歳になったお父さんと地下鉄に乗りたいと言われます。それはまだ一緒に行けない、逝ってはダメだという意味です。

きっと、意識の戻った彼は、家族にしっかり向き合い、残りの人生を幸福に過ごすだろうと予感させるラストでした。


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