奥田英朗(著) 文春文庫
伊良部総合病院地下の神経科には、跳べなくなったサーカスの空中ブランコ乗り、尖端恐怖症のやくざなど、今日も悩める患者たちが訪れる。だが色白でデブの担当医・伊良部一郎には妙な性癖が…。この男、泣く子も黙るトンデモ精神科医か、はたまた病める者は癒やされる名医か!?
直木賞受賞、絶好調の大人気シリーズ第2弾。(「BOOK」データベースより)
前作での強烈な伊良部先生の個性に引き付けられ、続編も手にとってみました
前回「バチスタ」シリーズの白鳥を連想したけれど、伊良部は彼とはやはり違っていることに気付きました。
白鳥はクレバー過ぎて周囲を下に見ている感があるけれど、伊良部はまさに五歳児のような、良い意味で単純・純粋な好奇心の塊です。彼は医師という上段から患者を見下ろすのではなく、彼らと同じ地面で同じことをして見せることで、客観的な視点を持ち込みます。患者たちは「他人の振りみて我が振り直せ」を実践することになり、それが「治療」に繋がっていくのです。伊良部が意識して行動しているなら、名医と呼んでも良いけれど、ただ自分がしたいことをしているだけなら・・・いやいや、少なくとも医学部を出て国家試験に受かって医師になっているのだから、やはり名医なのかも
・空中ブランコ
サーカスの花形である空中ブランコ乗りの山下公平は最近失敗ばかり。受け手の内田のミスが原因と決めつける公平に、妻のエリや上司の勧めで伊良部の診察室へやってきます。いきなりホットドッグほどの太さのビタミン注射を打たれ、ろくに話も聞いてくれない伊良部に不安を覚えますが、公平が空中ブランコ乗りと知って目を輝かせた伊良部は、翌日、公平の職場の新日本サーカスへ看護師を連れて往診にやってきます。そして公平が止めるのも聞かず、空中ブランコに挑戦するのです。連日やって来る伊良部は、推定100kgを超える体重で運動神経は無いけれど怖さを知らないジャンプで団員たちに溶け込み人気者になっていきます。一種の見世物状態だな 一方、公平のミスは続き、周囲との関係もぎくしゃくしていきます。新しく入ってきた内田とその仲間を疑う公平に伊良部が発した一言に触発され、彼はエリに頼んでビデオで隠し撮りして貰もらいます。しかしそこに映っていたのは腰が引けた演技をする公平自身の姿でした。それを見て自分こそがミスをしていたことに気付いた公平は、その原因が、新しい人を警戒し勝手にバリアーを張っていたことだと悟ります。両親も団員の彼は生まれた時からサーカス団の中で育っていましたが、組織が世間の流れで会社化していく中で、昔からの身内意識の高さが邪魔をして、内田を信用していなかったのです。大切なのは相手を信じて無心になることだと気付いた公平は内田に謝罪します。
一方、伊良部はというと、たった一週間でショーに出ることに わざわざ豹柄の衣装まで用意しているのですが、同行するマユミが豹柄の服で豹の檻から離れず観ていた姿を覚えていた公平が思わず豹が無事か確認するのが笑えました。本番でも気負わずジャンプする姿(見た目もインパクト大)に会場は沸きます。でもオチもしっかり用意されていて・・・その姿が目に浮かび観客同様爆笑してしまいました
・ハリネズミ
紀尾井一家の若頭・猪野誠司は尖端恐怖症になり、内縁の妻・和美の勧めで伊良部総合病院を受診します。ヤクザの自分を恐れるどころか、羽交い絞めにされて注射を打つ伊良部とマユミに驚き、言われるままに伊良部の提案に従いサングラスをかけてみることに。不安感は多少軽減したものの、今度はサングラスの弦が恐くなりスキーゴーグルにしますが、さすがに部下にも不審がられます。そんな時、血判状(短刀で自分の指を切らないといけない)を送るために招集がかかり、追い詰められた彼は咄嗟の機転で何とか切り抜けます。
伊良部は誠司を「ハリネズミ」のように相手を威嚇し続けなければならないヤクザ稼業に疲れたのではと分析します。自ら望んでこの道に入った彼は否定しますが、心の中では肯定する部分もあるのです。
一難去ってまた一難。和美が新たな店を敵対する組のシマに出そうとしてトラブルになります。話し合いの場に伊良部を伴い乗り込みますが、相手の吉安が短刀がないとパニックになるブランケット症候群と見抜いた伊良部のお陰で無事手打ちができました。この時の伊良部のフィクサー然としたいでたちの描写にも笑ってしまいます。相手にも人に言えない弱点があることを知り、誠司の中で憑きものが落ちるのですね。吉安も伊良部のところを受診することにする展開も何だか愉快です。家に帰って和美にこれまでのことを話すと、引退を勧められます。恩があるからと言いながら、高齢の頭が亡くなったらそれも悪くないと思うのでした。
相変わらず診察室に入ってくるなり注射のパターンですが、先端恐怖症の患者ですから必死に抵抗します。それを力ずくで押さえつけるために人を雇ったり、「注射はしない」と嘘を付いたり、まぁおよそ医者らしくない振る舞いの伊良部に呆れつつ、でも彼の治療方針は間違っていないので、やっぱりただ者ではないな、伊良部一郎!!
・義父のヅラ
麻布学院大学医学部の同窓会が開かれ、池山達郎は学部長となった義父・野村栄介の挨拶を聞きながら、栄介の一目でヅラと分かるそれを剥ぎたい衝動と戦っていました。会場には同期の伊良部も来ていて、彼の通ったあとにはウニもトロもローストビーフも空になっています。同期の間でも変人ぶりは変わらないようです。彼が医学部に入れたのは父親のコネのお陰と噂され、彼が国家試験に通ったことが何かの陰謀のように思われていること、小児科で子供の患者と喧嘩して持て余され精神科に回されたらしいということが語られ、妙に納得してしまいました。
伊良部は達郎の不審な様子に気付いて自分のところに受診するよう勧めます。達郎も精神科医ですが、何故か伊良部になら相談しても大丈夫な気がしたんですね。そういう気持ちにさせる何かが伊良部にはあるのです。でもさすがにヅラのことは言えず、達郎の学生時代を知る伊良部から、昔は明るく悪戯好きだったことを指摘され、羽目を外すようアドバイスを受けます。でも対面を気にして実行できない彼に、伊良部は達郎が子供の頃に思っていた表示板の書き換え(『金王神社前』を『金玉』に変える)をしようと誘います。まさに悪ガキの悪戯ここに極まれり!です。この一件は確かにストレスの発散に一役買いますが、調子に乗った伊良部は行動をエスカレートしていきます。病院でも看護師におやじギャグで話しかけたり欽ちゃん走りをしたりする達郎の行動は逆に周囲から奇行と受け取られてしまいます。
ヅラへの「誘惑」も耐えがたく、ついに伊良部に本当の悩みを告白した達郎に、伊良部はあっさりと「じゃあヅラを取ろう」と言います。悩みの根源であるヅラを取ることが何よりの治療になるというわけです。確かに一理あるかも!!
翌日、大学にやってきた伊良部は、中庭で居眠りをしている栄介のヅラを本当に取って達郎に写真を撮らせます。達郎を心配していた同期の倉本がその様子を見て伊良部に激怒し取っ組み合いが始まり、ヅラを戻そうとした達郎に二人がぶつかり絶体絶命の中、奇跡的にヅラが元通りに被さります。目を覚ました栄介は、伊良部を見て愛想を振りまき事なきを得るのです。何しろ伊良部の父の権力は絶大で、一郎自身がそのことをちゃんとわかっている様子に、やはりこいつはただの能天気な馬鹿ではないと思わされます。大学の権力者である学部長への悪戯を密告するような恐いもの知らずは絶対にいないと確信しての所業なのですから大したものです。
ヅラの呪縛から解放された達郎は、自分らしく振舞おうと決意します。その夜、息子がTVに映ったカツラのCMを見て「じいじ」と言ったことがきっかけで妻もそのことで悩んでいたと知り夫婦の距離も縮まった気がするのでした。
・ホットコーナー
プロ野球選手の坂東真一は名三塁手として活躍していましたが、ある日突然一塁への送球コントロールが出来なくなり伊良部の所へ受診します。症状を説明すると、伊良部はイップスと診断します。頭で考える通りに体が動かない症状なのね。伊良部に野球を教えて欲しいと強引に突き合わされる羽目になりますが、伊良部はまともにキャッチボールが出来ないのに、ゴロはストレートで返球できるのを見て首を傾げます。
球団には怪我と嘘の届けを出し、同期入団で親友の福原だけには打ち明けて練習に付き合って貰いますが、症状は悪化するばかり。真一のポストにはルーキーの鈴木がついて連日活躍する姿にプレッシャーが募ります。とうとう、若く容姿もアイドル並みで人気のある鈴木への嫉妬心が自分のプレイの乱れの原因と気付くのですが、そんな時、食事会が催され、酒にも強く優等生然としていた鈴木が実は酒癖が悪いことがわかります。トラブルに巻き込まれそうになった鈴木を一度は見捨てようとしたものの、結局助けた真一は、彼に対する印象を改めます。
その後、伊良部の病院の草野球チームの試合に呼ばれた真一は、野球本来の楽しさを思い出し、自然とスローイングも治っていました。
伊良部は守備も打撃もからきしで相手にやじられていましたが、悪球を見事に打ち返します。まるでドカベンの岩鬼じゃないか!!
ちなみにホットコーナーは野球のポジションの通称で、強烈な打球が飛んでくる事が最も多いサード(三塁手)を指すそうです。
・女流作家
人気恋愛小説家の星山愛子は、ある時から新作を書いている途中、設定が過去に書いたものと同じではないかとの不安に駆られるようになります。それが高じて嘔吐するようになり伊良部のもとを訪れますが、彼だけでなく彼女の読者年齢層のマユミにも認知されていないことにショックを受け肝心の話をし忘れます。更に後日、小説家になりたいと伊良部がマユミの挿絵が付いた小説原稿を渡してきて、閉口した愛子は編集者の荒井に丸投げします。
伊良部は愛子に「書きたい話」を書けばと言いますが、過去に自分で傑作だと感じた『あした』が売れなかったことがトラウマとなっている愛子は筆が進まず症状はますます悪化していきます。一方、伊良部は書籍化をして欲しいと編集部に日参するようになり、困った荒井は愛子に助けを求めてきます。苛々が募っていた愛子は誰かを罵倒したい気分になってその求めに応じ、出版社に乗り込んで伊良部を叱りつけますが、その場に居合わせたフリー編集者の親友の中島さくらに考えの甘さを指摘され説教されてしまいます。その言葉に励まされ自信を取り戻した愛子。伊良部の診察室を出た愛子にマユミが、『あした』は良かったと声を掛けてきます。彼女の作品に全く興味を示さなかったマユミからの思わぬ誉め言葉に、愛子は言葉の持つ力を確信し、自分の仕事への誇りを取り戻すのでした。
これまでの患者たちは、伊良部のキャラに度肝を抜かれっ放しですが、愛子だけは伊良部に臆することなく、逆に叱りつけたりします。彼女のような反応の方が「普通」で「自然」だと思いました。
伊良部の元を訪れる患者たちは、根は真面目過ぎるほど真面目な人たちです。だからこそ自分の中のルールや誇りが侵された時に心身のバランスが崩れてしまうのでしょう。伊良部は五歳児がそのまま大人になったような好奇心の塊で、自分の欲望に忠実です。他人の目を気にすることもなく、無邪気である意味純粋な伊良部だからこそ、その対極にあるような患者たちを惹きつけるのかも。ただ、伊良部は単純馬鹿というわけではなく、自分の境遇(親の権力や財力)を十分に意識して行動しているようでもあり、なかなか複雑な人物なのかもしれません。
でももし自分が心身のバランスを崩したとしても、伊良部のショック療法的治療は受けたくないかもな~~