伊与原 新(著) 新潮文庫
耳を澄ませていよう。地球の奥底で、大切な何かが静かに降り積もる音に――。
不愛想で手際が悪い。コンビニのベトナム人店員グエンが、就活連敗中の理系大学生、堀川に見せた真の姿とは(「八月の銀の雪」)。会社を辞め、一人旅をしていた辰朗は、凧を揚げる初老の男に出会う。その父親が太平洋戦争に従軍した気象技術者だったことを知り……(「十万年の西風」)。科学の揺るぎない真実が、傷ついた心に希望の灯りをともす全5篇。(内容紹介より)
不愛想で手際が悪い。コンビニのベトナム人店員グエンが、就活連敗中の理系大学生、堀川に見せた真の姿とは(「八月の銀の雪」)。会社を辞め、一人旅をしていた辰朗は、凧を揚げる初老の男に出会う。その父親が太平洋戦争に従軍した気象技術者だったことを知り……(「十万年の西風」)。科学の揺るぎない真実が、傷ついた心に希望の灯りをともす全5篇。(内容紹介より)
作者は地球惑星物理学 を専門とする理系出身者です。去年秋に窪田正孝主演で『宙わたる教室』がドラマ化 されましたが、この原作が伊予原氏であることを読書仲間から教えられ興味を持って読んでみました。
物語には専門的な科学技術情報がたくさん登場し、主人公たちの心の内側にもともとあったものを照らし出す小さな灯のきっかけとなっています。といっても素人にも理解できるよう丁寧に分かりやすく説明されているので問題なく楽しめました。
・八月の銀の雪
就活で内定が一つも取れない理系学生の堀川は、行きつけのコンビニ店員のグエンのいつまでたっても慣れない接客を苛立たしく感じていました。店で会った同じ大学だった清田に、怪し気なマルチ商法の手伝いを持ち掛けられた堀川は、報酬に釣られ商談のサクラ役を引き受けます。
グエンから忘れ物を知らないかと尋ねられたことから、彼女が地震の研究をしている大学院生で恩師から貰った論文を探していると知ります。清田が堀川に説明するために要らない紙と思って書いた紙がその論文の一枚と気付いた堀川は、そのことを清田に話しますが、彼は何故彼女に肩入れするのか訝しがります。
迷っている女子学生にアドバイスを求められ「就活やめていいなんて簡単に他人に言えるものなのかな」と話したことで商談が破談となったことを清田に問い詰められた堀川は、就活に対する思いや、三年前のゼミで独りあぶれていた自分に声をかけてくれたことが嬉しかったことを話します。
清田が堀川に声をかけたのは、昔の自分と似ていたからだと漏らします。
グエンがコンビニを辞めたと知った堀川は彼女の通う大学を訪ね、彼女がバイトが禁じられている奨学生で、日本語学校に通う妹の学費を助けるために身分を偽って働いていることを知ります。
使えないコンビニ店員とどこかで蔑んでいたグエンは、実はベトナムの貧しい農村育ちの家族思いの優秀な大学院生でした。
グエンは地球の中心にある内核に、鉄の結晶が銀の雪のように降っているかもしれないと言い、その音を聞くためにもっと研究を頑張りたいと話します。
『意外なことばかりだと考えるのは、間違いだ。深く知れば知るほど、その人間の別の層が見えてくるのは、むしろ当たり前のこと。今はそれがよくわかる』(文中より)
人の中にある感情を地殻に擬えて捉えるのがとても興味深かったです。
・海へ還る日
シングルマザーの「わたし」は娘の果穂が電車内でぐずった時に席を譲ってくれた女性から博物館のチラシを渡されます。クジラが好きな娘にせがまれ博物館の<海の哺乳類展>に行くとあの女性と再会します。彼女は動物研究部の委託職員として働く宮下和恵と名乗り、クジラたちの生物画の全てを描いていました。
宮下さんに誘われ網野先生のトークイベントに参加したわたしは、クジラやイルカについて色々なことを知ります。イベント後、宮下さんから果穂と一緒にスケッチのモデルを頼まれます。宮下さんが描いた絵の中の幸せな母子を見て、わたしは思わず「この子に何もしてやれない」と本音を漏らします。すると宮下さんは「大事なのは、何かしてあげることじゃない。この子には何かが実るって、信じてあげることだと思うのよ。」と言いました。自分に自信をもてずに大人になり、行き当たりばったりで妊娠・結婚したけれど離婚し、娘にも自分と同じような人生しか与えてやれないと思っていたわたしはその言葉に胸を衝かれます。
後日、宮下さんに誘われ九十九里浜で白骨化したクジラの掘り起こし作業を見学に行ったわたしは、網野先生から「クジラたちは、人間よりずっと長く深く考えごとをしていると思う」と聞かされます。
わたしの意識は海へと潜り、自分が以前に想像したプランクトンとしてではなく、人としてクジラと一緒に泳ぐ姿を見、クジラが歌う歌もその考えも想像が浮かばないことに気付きます。
自分たちは生命や神や宇宙について何も知らない、けれどもしかしたらその片鱗を知っているかもしれないと考えて嬉しくなったわたしは、娘には世界をありのままに見つめる人間に育ってほしい、そうすればきっと宮下さんのように何かを見つけるだろう、そしていつか必ず何かが実るだろうと思うのでした。
自分を否定してきた女性が宮下さんと出会ったことで意識が変わっていく様が心地よかったです。クジラの生態についても興味深く読むことができました。
・アルノーと檸檬
正樹は不動産管理会社の契約社員です。再開発によるアパートの立ち退きを拒む寿美江の説得に難航する中、彼女がベランダで飼っている迷い鳩の苦情が入ります。
立ち退きの前に脚環に<アルノー19>とある迷い鳩の飼い主を探すよう言われ、鳩レースの事務局を訪れた正樹は、そこでハトや渡り鳥の本を書いている小山内を紹介されます。迷い鳩はレース鳩ではなく新聞社の伝書鳩の血統であることがわかりますが、飼い主の存在がつかめません。
寿美江の検査入院中に鳩の世話を頼まれた正樹は、帰る場所を失った自分と<アルノー19>を重ね愛着が湧いてきます。彼は役者を目指して上京し、レモン農家をしている実家と絶縁状態になっていました。
やがて飼い主が見つかりますが既に亡くなっていて、家も無くなり跡地にタワマンが建っていることがわかります。退院してきた寿美江にそのことを話した正樹は、このまま飼って欲しいと言います。
正樹は同じ夢を追う仲間だった順也が売れたことに喜びと同時に嫉妬の感情がありました。だから彼からプロヂューサーを紹介すると言われた時、彼はもう違う世界の人間だと感じて、役者はやめて今の会社で働くことにしたと一世一代の演技をしました。そんな彼が迷い鳩の飼い主探しをするうちに、自分が見失っていたものに気付いていくのですね。
実家を思い出すレモンを嫌い避けていた彼が、八百屋で一個買ったレモンの香りを深くかぐ描写が、正樹の気持ちの変化を表していました。
・玻璃を拾う
瞳子がSNSにUPした画像に<休眠胞子>から著作権侵害を訴えるコメントが入ります。幾何学的な形の繊細なガラス片のようなもを並べて作られたその画像は、親友の奈津から送られた写真に混じっていたものだったことがわかります。
奈津と<休眠胞子>こと野中は、はとこで、膠原病を患う野中の母の雅代から奈津の母へ送られたものでした。野中に会いに行った瞳子は、SNSに公開されたことでそっくりのアクセサリーが無断で売られていたと聞かされます。
その画像はガラス細工ではなく、ガラスの殻を身にまとう珪藻でできたものだと明かした野中が、珪藻が気持ち悪いと言った瞳子に実際に見て確かめろと家に連れて行かれます。顕微鏡で見た珪藻の精緻な美しさと、それが相当な労力をかけて並べられたことを知ります。雅代のあたたかなもてなしを受け、例の画像が母の誕生祝いの作品だったことを知ると、それまで彼に抱いていた印象も覆り、彼と母親が互いを思いやって生活していたことを感じます。
雅代の訃報を聞き葬儀に参列した瞳子は、後日野中から見せたいものがあると言われ会いに行きます。彼に、母の日の作品製作の際に、瞳子のまつげを使ったと言われても不思議と嫌悪感を抱いていないことに気付いた瞳子は、またまつげを渡すことを約束します。
これまでありのままでうまく生きて来れなかった瞳子は、美しいガラスをまとう珪藻のように、人間のありのままの姿の本質を、見栄えよく繕った殻とそれに不釣り合いな中身を抱えていると考えるのでした。
野中の製作する珪藻の作品を実際に見てみたくなりました。不器用な生き方しかできない二人の今後もなんだか予想できそう。
・十万年の西風
原発の下請け会社を辞めた辰朗が、福島へ向かう途中に立ち寄った茨城の海岸で六角凧を上げている滝口と出会います。彼は気象学の元研究者で、父親が戦時中に気象技術者として軍事協力していたと話します。
原発の町で生まれ育った辰朗は、自分の仕事を誇りに働いてきましたが、会社で隠蔽行為を強要されたことで辞職し、福島を見ておきたいという思いに突き動かされます。
滝口と凧の話をする中で、彼から戦時中に使われた風船爆弾(偏西風に乗せてアメリカに攻撃を仕掛ける「気球兵器」)の話が出ます。滝口の父は風船爆弾の誤爆で亡くなっていました。
「風も、平和に使われるとは限らない」との滝口に、原発の仕事にも重なるところがあると感じた辰朗は、自分が子供の頃に父とあげた思い出のあるゲイラカイトを買って子供と一緒に凧あげをしながら、滝口の話やこれから訪れる福島でのことを話そうと思います。「たとえ何も伝わらなくても、今は構わない。いつかその意味を感じ取ってくれるような生き方を、父親である自分が見せてやれればいい。(本文より)」と。
風船爆弾のことは初耳でした。科学は人間の好奇心が発展させてきましたが、同時に間違った使い方をされることがあるのも事実です。あの原発事故から時が経ち、既に風化の兆候の見られる現在において、とても考えさせられる話でした。