各地の、政治的色彩のあるイベントを時々見に行くことがある。
学生の頃は、被差別関係のイベントに顔を出すことがあった。
労働運動の集会に行き、難病患者の車椅子を押して最後尾を歩いたこともあった。
20年近く前には、チベット関係の集まりに顔を出すこともあった。
(当時よく顔を出していた朝日新聞の記者は、チベット難民を応援していたのだろうか、あるいは親中国の立場から状況を探っていたのだろうか)
この2~3年だと、SEALDsなどの人たちが国会を囲んだ様子を見に行ったり、
読売新聞の新春懇親イベントにナベツネさんの顔を見に行ったり、
「アジア自由民主連帯協議会」という、中国政府に抑圧されているチベットやウイグルなどの人々が結集した団体の集会を見に行ってペマ・ギャルポさんや黄文雄さんの顔を見たり。
日中友好協会系のイベントに参加して西園寺一晃さんが中国政府そのままのような発言をしているのを聞いたり。
海外では、イスタンブールの亡命ウイグル人が集まっているモスクやレストランを見に行ったり。
ウイグル料理レストランでは「どこから来た?」と言われたので、「日本だ」と答えると親しげに握手してくれた。
ロンドン、ベオグラード、ビルバオ、ハワイ、東京、いろんな町でいろんな抗議活動やデモ行進を見てきた。
ただ、あくまで「観察」。
同調して盛り上がっているわけでもなく、情報収集活動を進めているわけでもない。
何かを狙っている訳ではない。
見ているだけ。
だけど、そこから見えてくることも多い。
社会秩序と、そこからはみだした人々の関係に興味があるので、ついつい難民や被差別民やアウトサイダーに目が向いてしまう。
各地を旅していると、差別の現場を目撃することがある。
例えば、東ヨーロッパにおけるロマ(ジプシー)に対する差別の状況は、本やネットの情報だけではなかなか体感できない。
現地に行って、いろんな顔立ちの多数のロマの人たちを見て、現地の人たちがロマの人たちにどのような態度をとっているか目にすると、得るものも多い。
自分のちょっとした経験をぜんぶのように感じるのはあやういけど、いろんな経験をすればするほど、全体像に近づくことができる。
そういうわけで、ぼくは世の中の構造を認識することに近づけるように、いろんなものを観察しているのかもしれない。
学生の頃は、被差別関係のイベントに顔を出すことがあった。
労働運動の集会に行き、難病患者の車椅子を押して最後尾を歩いたこともあった。
20年近く前には、チベット関係の集まりに顔を出すこともあった。
(当時よく顔を出していた朝日新聞の記者は、チベット難民を応援していたのだろうか、あるいは親中国の立場から状況を探っていたのだろうか)
この2~3年だと、SEALDsなどの人たちが国会を囲んだ様子を見に行ったり、
読売新聞の新春懇親イベントにナベツネさんの顔を見に行ったり、
「アジア自由民主連帯協議会」という、中国政府に抑圧されているチベットやウイグルなどの人々が結集した団体の集会を見に行ってペマ・ギャルポさんや黄文雄さんの顔を見たり。
日中友好協会系のイベントに参加して西園寺一晃さんが中国政府そのままのような発言をしているのを聞いたり。
海外では、イスタンブールの亡命ウイグル人が集まっているモスクやレストランを見に行ったり。
ウイグル料理レストランでは「どこから来た?」と言われたので、「日本だ」と答えると親しげに握手してくれた。
ロンドン、ベオグラード、ビルバオ、ハワイ、東京、いろんな町でいろんな抗議活動やデモ行進を見てきた。
ただ、あくまで「観察」。
同調して盛り上がっているわけでもなく、情報収集活動を進めているわけでもない。
何かを狙っている訳ではない。
見ているだけ。
だけど、そこから見えてくることも多い。
社会秩序と、そこからはみだした人々の関係に興味があるので、ついつい難民や被差別民やアウトサイダーに目が向いてしまう。
各地を旅していると、差別の現場を目撃することがある。
例えば、東ヨーロッパにおけるロマ(ジプシー)に対する差別の状況は、本やネットの情報だけではなかなか体感できない。
現地に行って、いろんな顔立ちの多数のロマの人たちを見て、現地の人たちがロマの人たちにどのような態度をとっているか目にすると、得るものも多い。
自分のちょっとした経験をぜんぶのように感じるのはあやういけど、いろんな経験をすればするほど、全体像に近づくことができる。
そういうわけで、ぼくは世の中の構造を認識することに近づけるように、いろんなものを観察しているのかもしれない。
But firstly you should make a concept and make a design of reaction.