波打ち際の考察

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波屋山人

想像

2019-05-16 22:10:56 | Weblog
かつて、「やさしい人たち」と呼ばれる部族がいた。
彼らは争うことを好まず、対立が生じそうになると自ら身を引いた。
決して不平不満を口にせず、いつも穏やかな表情で、つつましい日々を楽しんでいた。

彼らは、「けしからん」「とんでもない」などといった感覚的に物事を拒絶する言葉を使わなかった。
正義を信じることもなく、モラルを押し付けることもなかった。

あらゆる主義主張や慣例や決まりごとに固執することなく、さまざまな感覚や考え方を持つ人々を尊重していた。
宣教師や行商人が、神様や王様の権威を押し付けてきても、対立することなく話を静かに聴いていた。

自分の利益を守ることを優先せず、一方的に損をしても不満に思わない。
自分たちの部族社会の存続をあやうくするような武装勢力の襲撃や自然災害に遭っても、部族社会の存続を最重要視することはなかった。
「やさしい人たち」は、自分の生命の存続さえ、絶対に守るべきものだとは認識していなかった。

生命や社会といった、混沌から生じた秩序のようなものは、一時的な存在にすぎないのだから、いつか消滅するのは自然なことだ、と考えていた。
社会秩序や命の維持を絶対的な価値判断基準にしなかった彼らは、やがて活動地域を狭くし、堅固な組織を持つ人々に隷属を強いられるようになり、人数が減少し、前世紀の半ばには全滅してしまった。



彼らは天国も地獄も信じていなかったけど、彼らの魂とも言えるような、思考の残像のようなものが、現代社会の一部の人に感知されることがあった。

その感覚に触れた人たちは、「やさしい人たち」は、現在の人類よりも意識レベルの高い人たちだったのではないかと感じた。
人類は生物の最終進化形ではなく、現在の人類には理解できない意識状態に到達する可能性があるのではないだろうか。
そんなことを思う人たちは、かつて滅びてしまった「やさしい人たち」こそが、人類を超えた新しい人々なのではないかと想像した。

おそらく、人類の歴史の中では何度も「やさしい人たち」が生まれ、滅亡している。
現時点においても、すでに何人もの「やさしい人たち」による集まりが生まれている。
「やさしい人たち」の数が一定数を超えれば、それは人類の進化を引き起こすかもしれないし、現在の人類の滅亡を招くかもしれない。



上記のような背景を念入りに用意してから、説明くさくないゆるい感じの小説を書いてもおもしろいかもしれない、とふと感じた。

相変わらず世の中には、不平不満や争いごとも絶えないけど、そんな中で高度に進化した意識を持つ、穏やかな人々も増えているような気がする。



コメント (1)
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